攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

井伊直弼 の検索結果:

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次(十五)松平定信(十六)寛政の遺老と水野忠成(十七)水野忠邦(十八)阿部正弘(十九)堀田正睦(二十)井伊直弼(二一)安藤信正と久世広周(二二)一橋慶喜と松平慶永(二三)慶喜の側近たち江戸時代のナンバー2それぞれ おわりに参考文献 ナンバー2の日本史 作者:榎本 秋 エムディエヌコーポレーション(MdN) Amazon

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…桜田門外の変 大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺された事件。幕閣絶対主義を掲げた専制政策路線が破綻するとともに、水戸徳川家と譜代大名筆頭・井伊家の権威が失墜した。尊王攘夷運動が激化するきっかけに 江戸時代 1862年(文久2年) 坂下門外の変 公武合体を推進した老中・安藤信正が江戸城坂下門外で襲撃され負傷した事件。桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した 江戸時代 1863年(文久3年) 朔平門外の変 攘夷派の公家・姉小路公知(あねがこうじ きんとも)が、…

戦国時代の食事事情について教わりました

…送っています。しかし井伊直弼が藩主になると、殺生禁断のため斉昭への牛肉献上を中止したそうで、直弼の性格がよくわかるエピソードですね。 現代でも関西と関東では味付けが異なりますが、地方による味の好み(濃い薄い)は当時からあったそうです。織田信長に仕えた、中央で活躍していた料理人がまずいと叱られ、次に出した料理はうまいと褒められた、その理由について本人曰く「田舎者好みの濃い味にしてやった」とのこと。おそらくは好き嫌いというよりは食べ慣れている味かどうかの問題だと思いますが、こうし…

【クーデターで読み解く日本史】幕末の動乱の夜明けとなった暗殺劇――桜田門外の変

…戸・薩摩の十八士 ×井伊直弼 安政年間に幕府を揺るがした内外二つの問題――病弱で子どもの望めない将軍・徳川家定(とくがわ いえさだ)の後継者問題と、アメリカとの日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)に続く日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結して開国をするか否かという問題。これらをその豪腕で解決したのが、彦根藩主の井伊直弼(いい なおすけ)であった。 幕府の最高職である大老に就任した直弼は、二人の候補者のうち自分がもともと推していた徳川家茂(とくが…

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー水野忠央という怪物

…。この問題に、忠央は井伊直弼と協力して慶福を推す「南紀派」と呼ばれる党派を結成して、一橋慶喜を推す「一橋派」と呼ばれる党派と対立する。 この一橋派には、慶喜の父である水戸藩主の徳川斉昭(とくがわ なりあき)や福井藩主の松平慶永(まつだいら よしなが=春嶽)などの親藩大名が名を連ねたほか、薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)、宇和島藩主・伊達宗城(だて むねなり)、土佐藩主・山内豊信(やまうち とよしげ=容堂)といった西南の外様雄藩の藩主たちも加わっていた。慶永、斉彬、宗城…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…の立役者である大老・井伊直弼は、その年の内に一橋派として徳川慶喜を擁立した者たちや尊王攘夷派などを徹底的に処罰する「安政の大獄」を起こすが、それによって恨みを買ってしまい、1860年(万延元年)には暗殺されてしまう。これが「桜田門外の変」だ。 生まれる前に父を亡くしていた家茂にとって直弼は父親のような存在だったのか、彼のいうことなら素直に聞いたとされる。それだけに直弼の死には強い衝撃を受け、しばらく食欲を失ったという。その後に幕政の第一線に立ったのは老中・安藤信正(あんどう …

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府13代・徳川家定――趣味は料理の「癇癖将軍」 1824年~1858年

…このふたつの問題は、井伊直弼が大老に就任し、豪腕を振るったことで解決する。任命したのは家定だ。それまでまったくリーダーシップを発揮しなかった将軍が、死を前にして初めて将軍らしい行動をしたわけだ。しかし、その背景には、南紀派からの働きかけを受けた大奥が、「一橋派があなたを将軍から引き摺り下ろそうとしていますよ」と吹き込んだことがあったといい、結局のところは傀儡に過ぎなかったわけだ。 直弼は勅許を待たずに日米修好通商条約に調印し、また慶福(家茂と改名)を14代目の将軍の座につけた…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…知られるのは、幕末の井伊直弼であろう。内においては実子の望めない13代将軍・徳川家定の後継者問題、外に対しては諸外国による開国・通商要求という内憂外患の時代において、大老となった直弼は強権によって難問の乗り越えを図ったが、桜田門外の変によって凶刃に倒れた。幕末の悲劇と混乱を決定づけたできごとである。井伊家はこの一件で改易も十分ありえたが、そうなれば絶大な混乱となったことも間違いなく、幕閣は「所領10万石を削って25万石とする」処罰でことを収めた。以後、井伊家は幕末の動乱におい…

4.出世と譜代大名

…任して強権を振るった井伊直弼がよく知られている。最初に大老となったのは1638年(寛永15年)の酒井忠勝と土井利勝。それより前に井伊直孝が3代将軍・家光の側近として幕政に携わり、老中よりも高い地位にあった(たとえば奏書〔将軍の命令を伝える文書〕への押印で、直孝の判が他の老中よりも上段に押されていた、など)が、当時は大老という役職名がなかったため、直孝は大老には数えられていない。老中以上の権限を持ってはいたが、それを実際に振るったのは酒井忠清と井伊直弼くらいで、それ以外は名誉職…

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