攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

今川氏親 の検索結果:

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…の名門今川家の当主・今川氏親(いまがわ うじちか)の五男で、本来は家督を継ぐべき人物ではなかった。そのため出家させられた彼には、同時に教育係がつけられた。それが雪斎だった。彼は今川家の重臣の息子で、最初は駿河の、次は京都の寺で修行をしていた。この頃の名を九英承菊(きゅうえいしょうぎく)という。しかし氏親によって駿河に呼び戻され、義元(幼名は芳菊丸(ほうぎくまる))と共に寺で過ごす。この生活の中で、雪斎は義元に様々な教育を施している。 当時の僧侶は漢文を読めたことから軍学書など…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…河(静岡県)・遠江の今川氏親だ。氏親は室町将軍・足利家にも連なる今川氏を躍進させた人物であったが、彼が1526年(大永6年)になくなると、今川氏の勢力は一時衰退する。彼の後釜を狙って内紛が起きたからだ。その隙をついて、西三河の国人・松平氏が東にもその手を伸ばす。とくに松平清康の時にはほぼ三河全土がその支配下に入り、当然ながら作手の国人たちも清康に従ったのだが、1535年(天文4年)に清康は部下によって殺されてしまう。 一方、この頃には今川氏の内紛はすっかり収まって、氏親の子・…

明智光秀と太原雪斎――あるいは光秀と軍師

…その後父の主君である今川氏親の子、芳菊丸(のちの今川義元)の教育係・補佐役としてつけられた。そのままであれば二人は生涯を僧侶として過ごしただろうが、そうはならなかった。芳菊丸の兄が死に、今川家は後継者争いに突入したからである。 この血で血を洗う内紛において芳菊丸を勝利させ、戦国大名・今川義元へ成長させた立役者のひとりが雪斎であったとされる。以後、雪斎は今川家の政治・軍事・外交の各面において活躍し、中でもよく知られているのが武田・北条・今川の甲相駿三国同盟締結である。彼の死が今…

「麒麟がくる」第9回に登場した那古野城と刈屋城、末盛城、妻木城はどんなお城か

…は今川義元の父である今川氏親が築いた城です。氏親は北条早雲(伊勢新九郎盛時)の甥で、北条氏が関東に勢力を拡大するキーパーソンでもあります。さらにこの地はのちに徳川家康が名古屋城を築く場所でもあり、出てくる名前がビッグネームばかりです。ちなみに場所はいまの名古屋城の二の丸あたりで城址碑が立てられています。 kojodan.jp 刈屋城――家康の生母の実家―― 刈屋城(刈谷城)は竹千代(家康)の母である於大の方の実家です。水野信元は於大の方の兄にあたります。家康が年上の女性ばかり…

【戦国を彩る名軍師たち】東海一の弓取りを育て、支えた軍師・太原雪斎

…時の今川氏当主である今川氏親に見出され、彼の子の方菊丸(後の今川義元)の教育係となった。やがて今川氏の家督争いが勃発し、義元が一方の主役になると、彼の母である寿桂尼とともに義元を擁立、対立候補であった義元の兄弟を攻め滅ぼすのに関わっている。 こうして今川氏の当主になった義元は、のちに「東海一の弓取り」と呼ばれる程の躍進を遂げるが、その背景には崇孚の尽力があった。彼は勢力を隣接する二つの大大名――相模の北条氏・甲斐の武田氏との関係を安定させるために奔走し、ついに今川氏も含めた三…

浜松城 のちの天下人が絶体絶命の危機に陥った戦い

…それ以前、この地には今川氏親の家臣・飯尾乗連(連竜)が築いた引馬城があった。乗連の子・乗竜が城主をしている頃、家康に追われ、家康の支城になったと伝わっている。その後、引馬城を取り込む形で浜松城が築城されたわけだ。 ナンダー | 葵の御紋と桜と城[浜松城] 家康はこの城で29歳から45歳までの時を過ごしている。天下人となる家康を形作った城といってもいいのではないだろうか。この城にいる時に家康が命の危機に瀕した、「三方ヶ原の戦い」が起きている。 領地の拡大を進める信玄は、1572…

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