攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

堀田家 の検索結果:

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…坂家は、譜代の名門(堀田家)から養子を招いたことから譜代になっている。この脇坂家を含む六家が幕府に対して願い出をしたことで譜代になった「願譜代家」として記録に残っていることから、譜代と外様はやはり明確に分かれていたことがわかる。 さて、譜代・外様は基本的には時期の扱いという話をした。人間はおもしろいもので、ひとつのグループができると、そのグループの中でも小さなグループに分かれていくものだ。こうして、譜代の中でも「いつ仕えたか」の時期ごとに小さく分かれていったのである。 すなわ…

【殿様の左遷栄転物語】将軍のブレーン・新井白石

…けたらしい。 やがて堀田家からも離れた白石は、再びの浪人生活を経て、朱子学の師匠である木下順庵(きのした じゅんあん)に勧められて家宣のお抱え儒学者となった。ちなみに、この時期の就職活動をめぐっては、ひとつ美談がある。実は、順庵が最初に白石へ持ちかけたのは、加賀国は前田家への出仕であった。前田家はいわずと知れた「加賀百万石」の大藩であり、また学問への傾倒が深い家でもあったから、これは学者としては垂涎の就職先であった。 ところが、これを聞きつけた同輩の中に加賀へ母を残している者…

7.寵臣の出世と末路

…有力な譜代大名である堀田家と血縁関係を結んだことで、「願譜代」という立場ではあるものの、譜代大名と同じ扱いを受けるようになった。江戸城での殿席も、外様大名にあてがわれた柳間ではなく、譜代大名のための帝鑑間を使っている。脇坂家は龍野という西国につながる要所を所領とし、安董も奏者番から寺社奉行兼任と出世コースを歩んでいた。そんな折、大奥で延命院事件と呼ばれるできごとが起こる。安産祈願を唱え、大奥や大名家の奥女中の間で信仰を集めていた延命院という寺の住職・日道(または日潤)が、奥女…

2.譜代家臣団の成立

…家、藤堂家、高木家、堀田家、岡部家、朽木家、土岐家、稲垣家、丹羽家、三浦家、遠山家、加々爪家、内田家、小堀家、西郷家、奥田家、脇坂家、京極家、毛利家、山口家、柳生家、堀家、蜂須賀家、増山家などが含まれる。 これらとは別に松平家の一門がある。実は譜代大名として数えられる松平一族も少なからず存在したのだ。 松平一門 徳川を名乗ることができたのは、基本的に御三家と御三卿だけで、それ以外の一門――および元々松平を名乗っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳…

3.戦国大名から外様大名へ

…田藩)などは、譜代の堀田家より養子を迎えてからは譜代となり、老中も何人か輩出した。 親藩譜代外様という関係性が必ずしも固定のものではなく、その中でも将軍との親密さで動きがあった。そこに大名コントロールの妙があったのだ。 大名の格付け③官位とその他の格 朝廷から賜る官位もその大名の「格」を表す大きな要素であった。とはいっても、江戸時代初期には武家の官位は公家のそれから完全に切り離されており、将軍を経由して与えられる完全な名誉職になっていた。原則的にはまずどの大名でも従五位下の位…

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