攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

奥平信昌 の検索結果:

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなった。 家康晩年に生まれた九男義直、十男頼宣、十一男頼房はそれぞれ尾張・紀伊・水戸に家を建てられ、これがのちの徳川御三家になった(水戸は御三家に含まないという説も)。一方、五人の娘については多くが政略結婚をした。長女の亀姫は奥平信昌に、次女の徳姫は北条氏直に(北条との関係破綻後、池田輝政に)、三女の振姫は蒲生秀行に(のち浅野長晟に)、という具合だ。ただ、四女の松姫と五女の市姫はそれぞれ夭折している。

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…城主は2月に入城した奥平信昌です。勝頼は5月11日から長篠城への猛攻撃を開始しました。 34歳の家康は4月末に浜松城から吉田城に入城して籠城していましたが、武田軍の猛攻を防ぐために織田信長に再三援軍の要請をしていました。そして信長と嫡男信忠は5月13日に30,000の兵を率いて岐阜城を出立、熱田で先勝祈願をしたのち、5月14日に岡崎城で家康と合流しました。 その後、織田・徳川連合軍は5月16日に牛久保城、17日に野田原を経由して、18日に設楽原に到着しました。極楽寺山に信長、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…川家康の娘婿にあたる奥平信昌(おくだいら のぶまさ)が領主となったものの、彼が居城として別の新しい城(加納城)を築いたため、この城は廃城となった。 この稲葉山城をめぐる最も興味深いエピソードといえば、龍興の代に家臣によるクーデターで短期間とはいえ乗っ取られてしまったことだ。実行者は竹中半兵衛。豊臣秀吉の軍師、「秀吉の両兵衛」の一方として名高い半兵衛だが、彼はもともと斎藤氏の家臣で、この事件を起こして主家を離れた後に、秀吉と出会うことになる。 1564年(永禄7年)、半兵衛は主…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…。この功を評価され、奥平信昌が長篠城主となった。 これを黙って見ていられないのが、信玄の後を継いだ勝頼だ。本来の嫡男であった兄が父との確執の末に死に、諏訪氏を継承していたのが急に当主となった勝頼としては重臣たちの間に不和があり、「結果を見せて彼らを納得させなければいけない」という強い強迫観念があったようだ。たびたび遠征を繰り返し、三河・遠江の徳川領が脅かされている。 そんな中、1575年(天正3年)に武田軍による長篠城攻めが始まった。この攻撃は非常に激しく、ただ援軍を待ってい…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…忠臣・奥平氏 以後、奥平信昌は家康の娘婿として徳川氏に忠誠を誓い、数々の戦いで功績を上げる。「小牧・長久手の戦い」でも戦功を残し、これをのちに豊臣秀吉に褒められたところ、あくまで上役である徳川四天王の一人の酒井忠次の指揮がよかったからだと謙遜して答えたところ、秀吉はその人柄のよさを大いに褒めたという(『寛政重修諸家譜』)。 徳川氏が秀吉の命で関東に移った際には上野(群馬県)小幡3万石を与えられ、大名となった。さらに「関ヶ原の戦い」の後には、朝廷や公家との折衝を行う京都所司代の…

4.出世と譜代大名

…場にもあった。初代は奥平信昌。 大坂城代(おおさかじょうだい) 大坂城を守り、西国の大名の動静を監視する役職。豊臣家滅亡後、大坂が幕府の直轄地となって伏見城代の内藤信正が転任されたのが始まりとされる。2万石から15万石の石高の譜代大名まで選任され、1万石が俸禄として与えられた。また、赴任の際に従四位下の官位も授けられた。大坂は畿内の軍事的中心であり、大坂城代の責任は重い。任期は1年ないし3年の交代制の時期もあったようだが、結局はまちまちで、のべ70人ほどが任命されている。 大…

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