月山富田城の戦い の検索結果:
…攻め滅ぼされ(第二次月山富田城の戦い)、降伏に追い込まれる。以後は毛利氏の城となったが、関ヶ原の戦い後に出雲を取り上げられた後は堀尾吉晴が本拠としたものの、やがて放棄されて廃城となる。 この城について注目するのは1543年(天文12年)、「第一次月山富田城の戦い」である。これに先立つ形で尼子氏は毛利氏の吉田郡山城の攻略に失敗、勢いを失いつつあった。また、経久が孫の晴久に家督を譲ったばかりでもある。この隙を突きたい大内義隆は毛利氏らも出陣させ、大軍によって月山富田城を包囲した。…
… 吉田郡山城の戦いや月山富田城の戦いが行われていた時期は、元就が様々な面で毛利の勢力を強化し、毛利氏がそれまでの「有力な国人」から「戦国大名」へと脱皮していく時期でもあった。まず、名高い「両川体制」の確立がある。元就は安芸の有力国人だった吉川氏と小早川氏にそれぞれ息子を養子として送り込み、謀略を駆使して乗っ取ってしまったのである。 以前から宿敵として戦い続けてきた安芸北部の吉川氏に次男の元春を、水軍と縁が深い安芸南東部の小早川氏に三男の隆景を養子として送り込み、そのうえで他の…
…いたとのことです。 月山富田城の戦いで同盟国であるはずの毛利家を裏切った吉川家当主の興経は一族内で諍いを生じさせており、反興経派が吉川家の血を引く正妻・妙玖の次男である元春を養子にしたいと申し出たため元就はこれに応えています。 元春を養子に迎た家臣団によって当主の吉川興経が強制的に隠居させられ暗殺により命を奪い、吉川元春を当主として基盤を固めることに成功します。 毛利のものとなった吉川家に続き、毛利が欲しいのが小早川家でした。 小早川家は安芸東武の名門でしたが、早くから竹原小…
…天文11年)の第一次月山富田城の戦いである。 出雲の月山富田城は尼子氏の居城である。尼子氏は中国二強と謳われたほどの有力大名であったが、この前年には安芸の毛利氏を大軍で攻撃するも落とせず、また勢力拡大に大きな功績を残した尼子経久が亡くなっていて、時の当主・尼子晴久は大いに追い詰められていた。 一方、これを好機と捉えたのが中国二強の片割れ、長門の大内義隆であった。毛利氏をはじめとする支配下の諸勢力を総動員して出雲へ攻め込み、月山富田城を取り囲んだ。これを見て「もはや尼子は終わり…
…軍で攻め込んだ第一次月山富田城の戦いでは、尼子方は約1万5千の兵で撃退しています(敗れた大内氏はその後衰退)。しかし1565年(永禄8年)には毛利元就が月山富田城へ攻め込んだ第二次月山富田城の戦いでは徹底した兵糧攻めをおこない、城主・尼子義久は降伏し落城していますので、こちらも不落ではありません。2018年4月から発売されている御城印が験を担ぐ受験生のお守りとして人気です。 kojodan.jp 国吉城 若狭守護・武田氏の重臣で武田四老のひとりである粟屋勝久が城主をつとめた国…