攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松山藩 の検索結果:

仇討ちの歴史について教わりました

…まくらでのじょう)は松山藩士ながら兄の仇を打つべく江戸へ来たが、辰輔に察知され返り討ちにあう。伝之丞の子・伝十郎(でんじゅうろう)と伝兵衛の剣の弟子・小松典膳(こまつてんぜん)は二人の仇を討つべく辰輔を探し、逮捕されていた辰輔(鳥居の疑獄で一緒に逮捕された)が護送されるところを襲って仇を討った。伝兵衛の死から八年後のことだった。 どの事件も、その時代の政治事情や事件とけっこう深く関わっていて、たとえば赤穂事件は、将軍・徳川綱吉が従来の武断政治から文治政治への転換を進めていこう…

【江戸時代のお家騒動】酒井忠徳による財政改革 豪商・本間光丘の起用

…は庄内藩の支藩である松山藩酒井家出身で、4代藩主の忠真が亡くなった後に跡継ぎのいなかった本家へとやってきた。彼の妻は加賀藩主・前田綱紀の養女で、金遣いが派手だったために雑用金が膨らみ、財政を圧迫させる要因となっていく。 その上、1739年(元文4年)には幕府から日光東照社の修理を命じられ、4万8千両の普請費用が財政をさらに圧迫した。そのため、藩士たちから禄と扶持を取り上げ、その代わりとして雑用金を支給するなどの異例の措置をとらなければならないほど、藩は困窮していたのである。さ…

【江戸時代のお家騒動】船橋事件 家臣同士の権力闘争は喧嘩両成敗に

…をとって、船橋と乾を松山藩へ、兼平と乳井を萩藩へ預けることを決定する。 こうして事件はひとまず落ち着いたわけだが、その後に兼平・乳井派の者が多く藩を去っており、信義にとっては彼ら譜代家臣を失ったことは手痛い損失といえた。また一連の事件は、船橋の傲慢な態度によって引き起こされた騒動のように思われるが、兼平や乳井が船橋を憎んだ原因として「藩からの借財を申し入れたところ、武士の不覚悟を船橋に指摘され、そのことに腹を立てたから」とするものもある。それを考えると、一概に船橋を悪と決め付…

【戦国武将の御朱印集め】織田信長を祀る建勲神社の御朱印をいただいてきました(京都)

…男・高長の系統が宇陀松山藩→柏原藩と移り、廃藩置県を迎えました(柏原藩織田家)。 織田信雄は「小牧・長久手の戦い」で秀吉と戦い、連合を組んでいた家康に無断で和睦し、さらに「小田原征伐」で武功をあげながら三河・遠江への転封を嫌がって改易となり、「大坂の陣」後に大名として復帰するなど、波乱万丈の人生を送っていますが、織田の血脈をこうしてつないだことは評価されるべきでしょうね。 船岡山城として攻城も 冒頭に書いたとおり、いちおうここも城址です。山頂西側には少しだけ広場があるのですが…

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