攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松平家忠 の検索結果:

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…ります。また、家臣・松平家忠(まつだいら いえただ)を中心に、複数回にわたり城内各所に改修工事を施し、牧野城を強化しました。平成21年~27年度にかけて行われた諏訪原城跡の発掘調査では、現在諏訪原城跡にて確認できる堀などの遺構は、ほとんど家康が新たに作らせたものであることが判明しました。家康が「丸馬出」をはじめとする武田流築城術を用いて、牧野城として強化したことは、諏訪原城に戦略的価値を見出していた何よりの証拠であると言えます。 さらに家康は、1576年(天正4年)に今川氏真…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…『家忠日記』の著者・松平家忠(いえただ)の家系。額田郡、幸田町・能見(のみ)…8男光親(みつちか)の家系とされるが、実際には岡崎松平の庶流とも。額田郡、岡崎市・長沢(ながさわ)…長男あるいは8男という親則(ちかのり)の家系。宝飯郡、音羽町である。 なお、この三代信光の子供たちの順番について『寛永諸家系図伝』は竹谷、安城、形原、大草、五井、能見であるとしている。しかしこの兄弟順について、「編纂当時の当主たちの名前の順番をもとに、編纂時に決めたのでは?」という説がある。長男とされ…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…甚大だった(三河では松平家忠が城普請を継続している) これにより秀吉は家康に対して融和政策に方針を転換していく @天正大地震がなければ徳川家は滅亡していた可能性が高い 1586年(天正14年)、45歳 織田信雄が間に入って和睦成立。旭姫が家康の後妻に 10月、家康はついに上洛して秀吉に臣従する(豊臣大名化)。正三位権中納言に叙任 上洛する? 9/11、居城を浜松城から駿府城に移す 対秀吉の意味もあるだろうけど、両国が広がったことに伴いより中心の駿河に 1587年(天正15年)…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…ています。なぜなら、松平家忠は天正15年9月17日に「駿河の御城御普請がある」と連絡があり、天正16年5月12日には「天守の材木手伝い普請」を行い、天正17年2月17日には「小天守の手伝い普請」を担当しているためです(いずれも「家忠日記」より)。このような記録や発掘調査の結果から今よりも小規模であったことは明らかですが、家康初期の駿府城の姿を見ることはできません。さらなる発掘調査や研究の結果によって家康築城期の駿府城の姿が明らかになることを期待しましょう。 最先端技術の駿府城…

戦国末期の駿府城の瓦について

…徳川家康の家臣である松平家忠が書いた『家忠日記』より、家康が五カ国領有期に居城としていた1586年(天正14年)〜1590年(天正18年)には石垣の堀と天守が存在したと考えられるが、瓦を葺いた記載が見られないため、1590年(天正18年)に入城した中村一氏が、家康が築いた駿府城に葺いたものだと考えられてきた。しかし、2019年(令和元年)5月25日の静岡県地域史研究会において前田利久氏が、同年7月9日に『産経新聞』において千田嘉博氏が、駿府城金箔瓦が徳川家康五カ国領有期のもの…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…されたとありますが、松平家忠の『家忠日記』によれば切腹させられたと書いてあります。ドラマではどっちかな。 pic.twitter.com/6uM9xvCmJS — 攻城団 (@kojodanjp) 2016年2月7日 第6回「迷走」 第6回もタイトルの「迷走」のとおり「本能寺の変」後のドタバタを描いた回です。 明智光秀の兵に追われた松が琵琶湖に飛び込んだのもこの回でした。死なないことは史実から知ってましたが、まさかあんなふうに再登場するとは思いもしませんでした。 畿内では羽柴…

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