松平忠直 の検索結果:
…ました。天王寺口には松平忠直を置くと思われましたが、前日の八尾・若江の戦いで藤堂隊の援護を怠ったとして家康は忠直を先鋒とはせず本多忠朝に任せます。このような配置から家康が慎重に構えていた様子がうかがえます。家康も秀頼も専守防衛に徹するように指示を出していたのではないかとの推測もされており、両者ともに決戦にはせずに何とか和睦したかったのかもしれません。 しかしそんな家康の思いとは裏腹に、忠直隊が射撃を開始し、豊臣方もそれに呼応する形で射撃が行われたために合戦がスタートしてしまい…
…伊達政宗隊を撃退して松平忠直(まつだいら ただなお)隊を突破すると、残った僅かな手勢のみを率いて徳川家康本軍に3度にわたる強行突撃を仕掛けたのだ。 そのあまりの勢いに本陣を守る旗本が崩れ、馬印が倒れ、家康自身も死を覚悟した。家康の馬印が倒れたのはかつて「三方原の戦い」で武田信玄に大敗を喫した時以来だ、ともいう。しかし、3度目の突撃の際にさしもの幸村も力尽き、この報を聞いた豊臣勢は総崩れになる。この翌日に豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害を遂げ、大坂城もまた炎上する。こうして徳…
…輝や甥の越前福井藩の松平忠直ら身内であろうとも落ち度があればやはり改易という厳しい処分に処している。さらに、朝廷という巨大な権威に対しても締め付けを行っている。高位の僧侶や尼の着る「紫衣」は本来朝廷から許しが与えられるものだったのが、これを幕府の許可が必要であると定め、それを朝廷側が無視すると実力で僧侶たちから紫衣を取り上げてみせた。これは朝廷が幕府の下にあることを公然と示したものであり、時の後水尾天皇は天皇権威の失墜を嘆いて天皇をやめようとしたほどである。その一方、秀忠は自…
…舞台】福井藩【藩主】松平忠直【主要人物】松平忠直、今村盛次、本多富正 譜代VS新参家臣団の2大派閥による主導権争い 徳川家康の次男・結城秀康の子である松平忠直は1607年(慶長12年)に父の死を受けて家督を継ぎ、68万石を譲り受けた。忠直の「忠」の字は将軍・秀忠から一字を賜ったものであり、また1611年(慶長16年)には秀忠の三女・勝姫を正室に迎えており、彼の「特別扱い」がよくわかる。 この時の騒動は、重臣同士の勢力争いだった。まず、領地問題から領内で1万石を有する久世但馬と…
…」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。 「真田丸」の場所については、元禄年間(一六八八年〜一七〇四年)に作成された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。 平成二十八年一月 天王寺区役所 協力 大阪明星学園 題字 脇田龍峯 この…