攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

柳生宗矩 の検索結果:

【家康の謎】家康は武術の達人だったの?

…ただあき)や新陰流の柳生宗矩(やぎゅう むねのり)を剣術師範として召し抱えもした。 他にも、馬術は大坪流(おおつぼりゅう)の達者で「東海道で一番だった」などという話があり、弓をとっては三方ヶ原の戦いで浜松城へ逃げる最中、自らの弓で武田の兵を次々射抜いて道を開いたという。また、砲術も戦国時代きっての砲術の達人、稲富一夢斎(いなとみ いちむさい)に学んだとされている。ここまでくるといろいろ「盛った」のではないかという疑問もあるが、家康が戦国乱世の人らしくきちんと武術を学んでいたの…

【殿様の左遷栄転物語】返り咲きを期待して決断 柳生宗矩

将軍家剣術指南役の活躍 柳生といえば時代劇や時代小説などで知られる剣術流派「柳生新陰流」の家である。隻眼の剣客・柳生十兵衛三厳の名前は特に知名度が高いはず。しかし、そんな柳生家も一度、大名の地位を失ったことがあるのをご存じだろうか。 柳生家は菅原道真の末裔を称する大和国の国人であった。柳生宗厳(石舟斎)の代、剣聖と謳われる上泉信綱と出会って新陰流を学び、そこから柳生新陰流を創始して以後、剣の技を磨いていった。一方、宗厳の子である宗矩は父に推されて徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…とができたわけだ。 柳生宗矩の活躍 徳川から知行をもらうということは、徳川の家臣となった、ということだ。宗厳はもう老齢であったし、長男の厳勝は不具の身であったから、代わって5男の宗矩(1571―1646)が家康に仕えることになる。以後、柳生氏を動かしていくのはこの宗矩だった。 1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に際して、宗矩は会津(福島県)の上杉景勝攻めから引き返して西に向かう家康に先行し大和へ戻り、「同じく徳川に味方する筒井氏とともに大和の国人たちを取りまとめ、石田方…

『柳生非情剣』『柳生刺客状』ーー柳生を通して描いた時代

…では徳川秀忠に仕える柳生宗矩が中間管理職的に奔走する。なんとなれば、超然としたところのある次郎三郎や島左近、六郎といった人々よりも、人間味が丸出しでかつ作中で成長していく秀忠・宗矩の主従コンビの方が好き、という人だって結構いるぐらいだ。 その隆慶一郎は柳生一族の人々を主人公にした短編を幾つも刊行しており、『柳生非情剣』という短編集にまとまっている。柳生といえば真っ先に名前が出てくるであろう柳生十兵衛を主人公にした「柳生の鬼」や、家光の寵愛を受けたがゆえに悲劇に見舞われる美剣士…

3.戦国大名から外様大名へ

…光らせていた。当初は柳生宗矩などの外様大名が務めていたこの役職は、江戸中期になると旗本が就くようになり、やがて職務の内容も諸藩への法令伝達や江戸城内での序列・作法の取り仕切りなど、儀礼的なものになる。そのため、大名たちの監視者として機能していた時期は短い。 それでは、実際に諸大名を監視していたのは誰だったのか。臨時の役職として地方へ派遣された役人がいたようだ。一つは「国目付」である。これは3代将軍・家光の時代に制度が整えられた旗本の役職で、2名1組になって監視対象の大名のもと…

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