攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

桜田門 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…そかもしれませんね。桜田門外の変を筆頭に江戸でもクーデターが起こるようになり、京都では新選組が人を斬りまくってたわけですから。 まとめ・感想 榎本先生からは以下のようなコメントをいただいています。 ・とにかく史料が残っていないので、戦国時代以前のことはよくわからない。そもそも家系図も歴史も書き換えるのが当たり前という時代の常識を考えれば仕方のないことでもある(今になってもはっきりしたことがわからないのは史料が燃えたせい)。それでもどうにわかることは分かってきた。・一方で、内部…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…、西の丸龍ノ口から外桜田門、貝塚堀、半蔵門などの南西側の整備がされました。1614年(慶長19年)には本丸、西の丸、二の丸、虎ノ門までの外郭の石垣が修築されました。その外郭には神田から日本橋、京橋、新橋といった市街地ができ、江戸下町の中心として発展していくことになります。「慶長十三年江戸図」(都立中央図書館特別聞個室所蔵)に当時の城の姿を見ることができ、ここまでが家康が行った工事と考えられます。 家康時代の江戸城天守と本丸の構造 いま残っている天守台は家康時代のものではないが…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…戸時代は安定していて桜田門外の変あたりから騒がしくなっていく感じです。 グラフ化するだけで見えてくることはあって、たとえば今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれる鎌倉時代初期も事件は多いものの、けっこう散発的で北条時政・義時はゆっくり勢力を固めていったことがわかります。 なお江戸時代も「変」や「乱」こそ少ないものの「お家騒動」は各藩で起きていました。榎本先生によれば、江戸時代は地方分権で、藩という地方政府のあちこちでそういう事件が起きていたものの、全国的にその混乱が波及す…

【クーデターで読み解く日本史】2代続けて襲われた幕府の重鎮――坂下門外の変

…外で信正を襲撃する。桜田門外の変の後だったこともあり、多くの護衛をつけていた信正はこの襲撃を切り抜け、傷を負ったものの命を拾うことができた。襲撃者たちはその場で討ち取られている。ところが、武士でありながら背中に傷を負ったこと、また素足で江戸城へ逃げ込んだことなどが問題視され、信正は失脚してしまったのである。 これによって幕府主導の公武合体運動は頓挫せざるを得なかった。しかし、この後も薩摩藩をはじめとする雄藩主導によって幕府と朝廷の接近は進められ、また政略結婚であった家茂と和宮…

【クーデターで読み解く日本史】幕末の動乱の夜明けとなった暗殺劇――桜田門外の変

…珍しい雪の日に江戸城桜田門外で直弼の一行を襲撃した。直弼は彼らの倍以上の従者を従えていたが、いずれも傘を被り、視界は遮られていたので咄嵯に対応できなかったようだ。襲撃者の撃った銃が直弼に当たり、身動きが取れなくなったところを殺害されてしまったという。 幕府重臣を暗殺した彼らはあるいは襲撃の際に死に、あるいは行方をくらませ、あるいは捕らえられて処刑された。しかし「大老が暗殺された」という事実は幕府の威信を大いに傷つけ、また幕末の動乱期に数々演じられた暗殺劇の最初の一つとしても歴…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…れてしまう。これが「桜田門外の変」だ。 生まれる前に父を亡くしていた家茂にとって直弼は父親のような存在だったのか、彼のいうことなら素直に聞いたとされる。それだけに直弼の死には強い衝撃を受け、しばらく食欲を失ったという。その後に幕政の第一線に立ったのは老中・安藤信正(あんどう のぶまさ)で、この人はすっかり地に落ちてしまった将軍と幕府の権威を回復させるため、公武合体政策を推進した。すなわち、家茂の正室として時の孝明天皇(こうめいてんのう)の妹・皇女和宮(かずのみや)を迎えること…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…川家定の後継者問題、外に対しては諸外国による開国・通商要求という内憂外患の時代において、大老となった直弼は強権によって難問の乗り越えを図ったが、桜田門外の変によって凶刃に倒れた。幕末の悲劇と混乱を決定づけたできごとである。井伊家はこの一件で改易も十分ありえたが、そうなれば絶大な混乱となったことも間違いなく、幕閣は「所領10万石を削って25万石とする」処罰でことを収めた。以後、井伊家は幕末の動乱においてさほどの存在感を示すこともなく、明治維新を迎えている。 kojodan.jp

4.出世と譜代大名

…た大老・井伊直弼が「桜田門外の変」によって暗殺された。これ以後、尊王攘夷過激派が京都を中心に活動を活発化させ、畿内全域は急激に治安が悪化する。彼らに対し、畿内を守護するために置かれた役職が京都守護職だ。京都所司代よりも上位に当たる。京都守護職を務めたのは、会津藩主の松平容保と、途中でわずかな間だけ彼に代わった松平慶永の2人だけである。ほとんどの期間は、容保がこの役職に就いていた。京都の治安維持を目指した容保だったが、攘夷運動があまりに活発であり、当初の宥和路線から強硬路線へと…

「本能寺の変」や「島原の乱」など、変とか乱のちがいとは?

「本能寺の変」や「桜田門外の変」など、歴史にはいろんな事件が起こりますけど、この「変」ってどういう意味かわかります? ほかにも「島原の乱」とか「大塩平八郎の乱」のような「乱」や、秀吉の朝鮮出兵である「文禄・慶長の役」の「役」とかも、いまいちよくわからないですよね。 そこでちょっと調べてみました。おおよそこんな感じで分類されるみたいです。 呼称 意味 例 変 政治的な陰謀・政変や政権担当者側が不意に襲われた場合 本能寺の変、桜田門外の変 乱 政府・現政権に対する反乱や武力による…

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