攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

森可成 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】藩主の乱心で改易 津山藩森家

…守護の土岐家に仕え、森可成の代に信長の家臣となる。長男の長可(次男とも)は「鬼武蔵」と呼ばれるほどの武勇の将であり、その弟の蘭丸は信長のそば近くに仕えた、というわけだ。 しかし蘭丸は信長とともに死に、長可は羽柴秀吉についたものの討ち死にしたので、森家を継いだのは末弟の忠政だった。豊臣政権では美濃国金山に7万石を与えられ、関ヶ原の戦いでは東軍に従った功績で美作一国である18万6千石余を与えられた。津山藩の始まりである。 森忠政にはふたりの息子がいたが、ふたりとも早世していた。そ…

明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

…であった。蘭丸の父・森可成はもともと美濃の生まれで斎藤氏に仕えていたが、初期から信長を支え、尾張統一や美濃攻めで活躍した。信長にも大いに信頼されていたはずだ。ところが、浅井・朝倉との戦いで戦死してしまっている。なお、可成が守っていた宇佐山城は、のちに明智光秀に与えられている。 その遺児はそれぞれ信長の配下として活躍した。例えば次男の森長可は織田信忠配下で1582年(天正10年)の武田攻めに参加して奮闘しており、この時まだ若いながら戦後に小さくない領土を与えられている。蘭丸は信…

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…と戦って織田の重臣・森可成を死に追いやったり、という具合である。しかし、そのような奮戦にもかかわらず、朝倉氏の命運は尽きようとしていた。1573年、押し寄せる織田軍を迎え撃った「一乗谷の戦い(利根坂の戦い)」において吉家は討死。間も無く主君・義景も死に、越前の名門・朝倉氏は滅亡してしまったのである。 この吉家と明智光秀の間に、何か関係があったのか。史料としては痕跡を見つけられなかった。ただ、朝倉家の外交に大きな責任を持つ吉家が、光秀と何の接触も持たなかった、というのはちょっと…

「麒麟がくる」第2回に登場した古渡城と田代城、小熊城、大桑城はどんなお城か

…いましたが、田代城は森可成が城主をつとめた城です(もしかするとこの時期は可成の父の森可行がまだ城主だったかも)。可成というと(その子の長可や蘭丸の知名度もあり)織田家家臣のイメージが強いと思いますが、もともと森氏は代々土岐氏に仕えていました。道三との関係はよくなかったため織田家に通じるようになりましたが、このときは美濃側の城として攻め落とされたようですね。 kojodan.jp もうひとつの小熊城は岐阜県羽島市にある城で平安時代後期に小胡麻維季が築城したとされるのですが、正確…

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