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明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

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山崎吉家は朝倉氏に代々仕えた重臣一族の生まれである。
祖先は赤松氏の流れで、山城国に移り住んだのち、朝倉氏に仕えるようになったと伝わっている。

吉家は朝倉氏の宿敵である一向一揆との戦いをはじめ、武将としても活躍したし、加えて外交官としての働きもめざましかった。一向一揆を追い詰めるためには越後国の上杉氏との関係が重要であるのだが、朝倉氏においてその外交を担当したのはもともと朝倉一族の重鎮・朝倉宗滴で、その死後には吉家に役目が受け継がれたのだ。
ほかにも武田信玄との外交交渉も彼の担当になっているなど、家中における彼の重要度がよくわかる。

もちろん、織田信長との長年にわたる戦いでも吉家はたびたび出陣している。
「金ヶ崎の戦い」で撤退する織田軍を追撃したり、浅井長政の要請を受けて援軍として近江に出たあとで義景らの本隊と合流、織田軍と戦って織田の重臣・森可成を死に追いやったり、という具合である。
しかし、そのような奮戦にもかかわらず、朝倉氏の命運は尽きようとしていた。
1573年、押し寄せる織田軍を迎え撃った「一乗谷の戦い(利根坂の戦い)」において吉家は討死。間も無く主君・義景も死に、越前の名門・朝倉氏は滅亡してしまったのである。

この吉家と明智光秀の間に、何か関係があったのか。史料としては痕跡を見つけられなかった。
ただ、朝倉家の外交に大きな責任を持つ吉家が、光秀と何の接触も持たなかった、というのはちょっと考えられない。なにがしかの関係はあったのではないか。
しかもこの辺、私たちの想像を逞しくさせてくれる手がかりが存在する。すでに紹介した通り、吉家は主君・朝倉義景と運命を共にした。彼の嫡子も、ほかの山崎一族も、その多くが同じ戦いで討死している。ところが吉家の弟・吉清の子の長鏡(改名して長徳)は生き延び、光秀の家臣になっているのだ!

ただの偶然か、光秀が越前時代のことを懐かしんだのか、それとも吉家との間に何か約束があったのか……そこまではさすがに考えすぎであろうか。
ともあれ、長徳は「山崎の戦い」を生き延び、晩年は前田利家に仕えて、最後には1万石を越える重臣にまでなった。彼の子供たちはいくつかに別れた前田家にそれぞれ仕え、長く山崎氏の家名を保ったのである。

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