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明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

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荒木村重は「信長を裏切った男」のひとりとしてよく知られている。明智光秀とも関係があるため、彼の裏切りが「本能寺の変」に何らかの形で繋がった……と考えることもできるかもしれない。
村重はもともと、摂津の大名である池田勝正の家臣だった。織田信長の上洛時、勝正は信長に臣従する道を選んだので、村重もまた信長に従うようになる。

村重にとって運命の分かれ道になったのは、主家である池田氏の内紛だった。
その中で村重は池田一族として認められるほどに力を増し、また主君であった勝正も追いやり、信長から摂津一国の支配を認められた大名になりおおせたのだ。
以後、村重は織田政権の大名として活躍する。石山本願寺との戦いに加わる一方、羽柴秀吉とともに播磨で毛利氏側の勢力と戦っていた時期も長い。ところが1578年(天正6年)になって、村重は突如として信長に反旗を翻す。

どうして彼は謀反に踏み切ったのだろうか。
諸説あるが、有名なものとして「配下の武将・中川清秀に本願寺への兵糧横流し疑惑が持ち上がり、弁明に向かおうとしたがそうしても殺されるだろうと中川に説得され、裏切りを決断した」というものがある。しかしこれは信憑性が低いともいい、「織田と毛利のどちらかが勝つかをしばらく見比べた上で毛利側についたのだ」という説もある。
おもしろいところでは『陰徳太平記』が「すでに謀反を考えていた光秀が、村重がいると邪魔だから始末しようとして謀反へ誘導したのだ」としているが、これもさすがに考えすぎの類であろう。

村重の反乱はうまくいかなかった。配下の武将たちが次々と降伏する中、村重は居城の有岡城に籠るしかなくなってしまう。
10ヶ月に渡る籠城の末、村重はわずかな供とともに脱出(自分だけ逃げたのだとも、援軍を連れてきて城を守るためだったともいうが、けっきょく有岡城は間も無く落ちている)。
村重はしばらく別の城に拠るなどして反抗を続けたが、ついに毛利氏の元へ逃げこんだ。これで信長も手を出せない。その後、頭を剃って「道薫(どうくん)」と名乗り、信長の死後には茶人になって余生を過ごした。秀吉にも仕えている。
(はじめは自らの行動を恥じて「道糞(どうふん)」と名乗っていたが、秀吉に許され「道薫」に改めさせたとも)

彼の嫡男、村安(村次とも)には光秀の娘・が嫁いでいる。
村重の有岡城脱出時、荒木一族の女子供は捕らえられ処刑されたが、謀反後まもなく離別されて光秀の元に戻されていた彼女は助命された。のちにこの連載でも紹介した明智の重臣、明智秀満と再婚したという。

信長は多数の配下に裏切られたことで知られ、最大の例こそ「本能寺の変」である。
その理由を紐解いてみると、勢力の急激な膨張の中で従った外様の武将が、自分の立場が悪い、織田の情勢が不利だと見て裏切ったケースが多い。村重のケースはまさにそうであろう。
光秀もまた、同じように織田政権の不利と己の立場の不安定さを見出したのではないか。譜代家臣のように長年醸成された信頼感のないことが原因だったのではないか。そのように考えるのだが、如何だろう。

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