攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

立花宗茂 の検索結果:

【戦国軍師入門】立花道雪――輿で戦場を駆けめぐった、雷神の生まれ変わり

…てしまうのだ。のちに立花宗茂を誾千代の婿に貰い、彼が立花家を改めて継ぐことにはなるのだが、これは女性蔑視の風習が非常に根強い当時からすれば、破格に型破りなことだった。 その後、すでに述べたように1578年(天正6年)の「耳川の戦い」の敗北によって大友家が衰退の一路を辿るようになると、各地を転戦してその衰退を少しでも抑えようとする。しかしその最中の1585年(天正13年)、陣中にて病没する。大友のために生涯をかけて戦に生きた名軍師の死だった。 遺言として道雪は自分の遺体に鎧を乗…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城

…で、勇将として名高い立花宗茂をはじめとする西軍の大津城包囲部隊は決戦に参加することができなかった。これはある種の囮として立派な働きである、というものだ。家康もこれを高く評価し、戦いの後に高野山へ入っていた高次をわざわざ呼び戻し、若狭を加増している。 けなした家康と褒めた家康のどちらが真実でどちらが作り話なのかはともかく、客観的に見れば高次の働きが東軍の勝利に少なからず貢献したのは間違いない。敵勢力を惹き付け、決戦を有利にするのも、城の大事な役割なのである。 kojodan.j…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は④――北九州の防波堤になった城・立花城

…雪)から、その養子・立花宗茂へと譲られた。 その後、豊臣政権下ではこの地は黒田長政のものとなる。その他多くの山城と同じく、立花城もまた天下泰平の時代には無用の長物であり、長政は福岡城を築いて居城とし、こちらは廃城とした。中国地方と九州地方が接する激戦地であるこの地は、戦国時代においては大内氏あるいは毛利氏と大友氏の激闘の舞台になったのはすでに見てきたとおり。特に激戦となったのが、1568年(永禄11年)に城主・立花鑑載(たちばな あきこと)が毛利氏へ裏切ったことに端を発する戦…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

…って立花氏を継承し、立花宗茂(たちばな むねしげ)と名乗る。そしてこれが後の岩屋城の悲劇の伏線となるのだ。 そんな中、ついに島津氏が筑前に攻めてきたのは、1586年(天正14年)のことである。この時期、大友氏は中央の豊臣秀吉に接近し、島津討伐を働きかけていた。島津氏としては「秀吉が来る前に九州での支配地を広げておきたい」といったところだったろう。秀吉はこの頃になると北陸の佐々成政・四国の長宗我部元親らを降伏させて上杉景勝を臣従させ、中国の毛利輝元・東海の徳川家康らを配下として…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…表的な人物としては、立花宗茂の項で紹介した本多忠勝がいる。そして、定正系の代表こそが正信・正純親子である、といっていいだろう。 この正信もまたなかなかに数奇な運命をたどった人物である。彼は家康の幼い頃からの側近であったが、三河一向一揆では一揆側について、反乱鎮圧後に出奔。各地を渡り歩いた末に家康の元へ戻り、以後は謀臣としてさまざまな場面で活躍した、という。1582年(天正10年)に本能寺の変が起きて同盟者である織田信長が死んだ際、家康は京にいた。そのために苦労して伊賀を通過し…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

立花宗茂と丹羽長重はそれぞれに苦労をして、お家再興にこぎつけたわけだが、いってしまえば所詮は数年の浪人生活を過ごしたに過ぎない、といえる。このふたりはもともと豊臣政権の中枢に近いところにいて、親交のある大名も多く、徳川家康・秀忠といった将軍たちの覚えもめでたかったから、再興活動もやりやすいところがあったのかもしれない。 実は、彼ら以上に苦労し、改易から15年を経てようやく再興にこぎつけた苦労人大名がいる。その名は、岩城貞隆(いわき さだたか)。岩城家は平繁盛(平安時代に関東で…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…同僚だった父を失い 立花宗茂と同じく秀忠の御伽衆に選ばれた武将の中に、丹羽長重という人物がいる。彼もまた関ヶ原の戦いで改易され、その後再興を遂げた大名だ。彼の生涯はまさに苦難の連続であった。長重の父・丹羽長秀は織田信長に仕え、織田家臣団の中でも目立って活躍したうちのひとりだ。その血筋は鎌倉時代頃に関東で大きな勢力を誇った武蔵七党のひとつ、「児玉党」にさかのぼる。 長秀は、通称の五郎左衛門から「米五郎左」(米は地味だが欠かせないもの=長秀もまた合戦で欠かせない、の意)と称される…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…としては、九州の雄・立花宗茂がいる。ある時、豊臣秀吉が東西ふたりの武将を「天下無双」と褒めたことがある。東は本多忠勝――徳川家康の下で50を超える戦いに参加し、1度も手傷を負わなかったという豪傑だ。これほどの男と並び称されたのは、その頃20代の若武者ながら、忠義の心と武勇の両方をそろって称えられた傑物――それこそが宗茂だ。 ちなみにこのふたりは秀吉によって引き合わされて意気投合し、年長者の忠勝がさまざまな話を聞かせるようになった、と伝わる。その中に「上の立場の人間は下の人間の…

【江戸時代のお家騒動】鍋島騒動「猫化け話」に象徴される龍造寺家の悲劇

…西軍に与した柳川城の立花宗茂を攻撃、開城に持ち込んだ。さらに戦後、直茂の次男・忠茂を人質として差し出すことで、彼らは減封を免れたのである。1603年(慶長8年)には、家康のはからいで高房が次期将軍・徳川秀忠に仕えるようになる。しかしこのことは、龍造寺家の形骸化をさらにはっきりさせることになった。高房が江戸詰めになったところで、領国の運営には問題なかったからだ。 このような状況に、高房は当然ながら不満を抱き、龍造寺家の再興を果たそうとした。しかしその2年後には、勝茂が家康の養女…

岩屋城攻防戦、息子たちを救うため高橋紹運玉砕す

…れた大友氏の重臣だ。立花宗茂の実父、ということでわかっていただける人も多いかもしれない。彼と立花道雪は戦国時代後期に急速に衰退していく大友氏を支えて奮闘した。 そんな紹運が壮絶な死を迎えることになったのが1586年(天正14年)、「岩屋城の戦い」でのことだ。このとき、宿敵である島津氏の五万ともいう軍勢が北上し、大友氏は絶体絶命の危機に陥っていた。そんな中、紹運はあえて対島津氏最前線の岩屋城にわずか763名の兵とともに篭ったのだ。 なぜ紹運はそのような自殺にも等しい行為に踏み切…

マンガでわかる島津義弘

…上杉謙信や本多忠勝、立花宗茂などと並んで最強武将のひとりでもありますが、このマンガは有名な「島津の退き口」のシーンからはじまります。「繰抜(くりぬき)」や「捨て奸(すてがまり)」などじっさいに用いられたとされる島津軍特有の戦法が紹介されていますので、勉強にもなりますね。 マンガの画像をクリックすると拡大サイズで読めます 初出:『歴史魂vol.6』(2012年3月) なお、なぜ「関ヶ原の戦い」において島津軍がわずか1500しかいなかったのかというと(1000や3000の説もあり…

真田信繁は伊達政宗と同い年!?(真田家のみなさんとおもな戦国武将の生年比較)

…。じっさいこの年には立花宗茂や有馬晴信も生まれてますので。 余談ですがこの年は松永久秀が東大寺の大仏殿を焼いた年です。あとWikipediaによれば家康が徳川を名乗るようになったのもこの年みたいですね。 『真田丸』出演俳優の生年 せっかくなので大河ドラマ『真田丸』で真田家を演じる方々の生年もチェックしてみました。 大河ドラマ『真田丸』の出演者とじっさいの年齢 人物名(役名) 生年月日(年齢) 草刈正雄(真田昌幸) 1952年9月5日(63歳) 大泉洋(真田信幸) 1973年4…

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