攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

総構え の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…囲むように「城もなか総構え」と称し紹介させていただきました。小田原編はこちらをご覧ください。 blog.kojodan.jp (再掲)小田原城城もなか総構え この総構え、小田原城に至る街道や海をぐるりと取り囲んで守りを固めているようだが、北西から線路を跨いで小田原城に至るルートがガラ空きで弱いと思っていました(福来すずめさんの左側)。今回新たに発見された、清月菓子店さんのもなかは、この北西からの守りを固める城もなかだったのです! ただこれまでの城もなかのお店が小田原城の徒歩1…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…店があるため、まさに総構えのような鉄壁の布陣。城もなかのあんこ同様、写真もたっぷりの超大作となってますのでじっくり楽しんでください!! 今回は小田原の城もなかと出会う旅に、城めぐりをしながら行ってきました。小田原は、小田原城の城もなかが小田原城周辺に囲むように存在していて、まさに城もなかの総構え。そんな城もなかの大聖地、一大産地である小田原の城もなかを制覇してきました。城もなかにご興味ある方は一度は訪れていただきたい場所です。 「城もなか学」があるとすれば、教科書に必ず載る地…

【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

…や小田原城を取り囲む総構えの建設、兵士の増員などの対策を取っている。北条家は北条家でできるかぎりの対策をした、と考えるべきだろう。 しかし、秀吉の力は北条家の想像の遥か上をいっていた。豊臣軍は各地の支城を次々と攻め落とし、小田原城を大軍で取り囲んだ。北条側としては先の上杉謙信による関東遠征の際のように兵糧切れを期待したかっただろうが、秀吉はその莫大な経済力によって物資も充実させており、かつ兵農分離によって農業の時期に左右されず長期間遠征できる軍勢を調えていた。 一方の北条軍は…

【お城の基礎講座】69. 城下町(じょうかまち)

…です。さらに城下町は総構え(そうがまえ)と言う堀や塀などで町全体を囲う防御をするところもありました。そして城下町の出入り口は城の虎口と同じように、食い違い虎口(くいちがいこぐち)や枡形虎口(ますがたこぐち)などを作って厳重に守っていたのです。 まとめ 城下町は城の発展とともに発達してきました。現在でもその町割りがよく残っているところがあります。江戸時代の絵図を片手に街歩きをすると新たな発見があることでしょう。それもお城めぐりの楽しみのひとつですね。ということで、城を守る城下町…

【お城の基礎講座】53. 水堀(みずぼり)

…とがあります。これを総構え(そうがまえ、惣構えとも書く)と呼ぶことがあります。しかし、現在は都市開発などによって中堀や外堀が埋められ、内堀だけが残っている城が大半です。 名古屋城の内堀。現存三重櫓である西北隅櫓と石垣、水堀が画になる 堀の仕掛け 水堀は、堀の幅が広ければ広いほど防御能力が高くなっていきます。つまり堀幅が広くなると渡っていくことが困難になっていくからです。重い鎧などを着た武士は堀を泳いで渡ることは簡単にはできませんでした。重いために沈んでしまうこともありました。…

北野天満宮で御土居を見てきました

…正確には秀吉が京都の総構えとして、全長約22.5kmにわたって周囲に築いた土塁が御土居なので、「御土居の一部」が北野天満宮に残っています。 ここは「もみじ苑」となっていて、有料で見学することができます。 見学料は宝物殿の入館料とあわせて「500円」です。 史跡 御土居(おどい) 御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉公が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やし…

内郭と外郭

…囲まれた内部のこと。総構え(そうがまえ)。 これだけではわかりにくいのですが、外郭については「総構え」といいかえるとわかりやすくなります。 つまり城だけでなく、城下町一帯も含めた区域ということですね。 (その外周を堀や石垣、土塁で囲んだ構造になっていることが条件) 一般に「城」あるいは「城域」という場合は、内郭のみを指すようです。 また、総構えの堀は総堀(惣堀)といいますが、外堀といわれることも多いです。ただしたんに外堀と呼ぶ場合は本城の外側の堀(=内郭の外周を囲う堀)を指す…

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