攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

萩藩 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】無念の長府藩主 毛利秀元

…利家は長州藩(長門国萩藩)毛利家の支藩にあたる。長府藩の初代藩主である毛利秀元は、本来は本家の当主となるはずだったのに、それがかなわなかった男である。 秀元は毛利元就の四男である元清の子で、毛利本家の当主である輝元のはとこにあたる。この輝元には実子がなかったために、1592年(天正20年)、13歳のときに秀元が養子となり、後継者候補となっていた。実際、養父の代わりに「文禄の役」で総大将を務めるなどの活躍もしている。 またちょうどこのころ、秀元が豊臣秀吉の命を救った、などという…

【殿様の左遷栄転物語】再興運動が展開された 徳山藩毛利家

…ある。長州藩(長門国萩藩)毛利家の支流にあたる。毛利輝元の次男として生まれた毛利就隆(もうり なりたか)が、兄で本家の家督を継いだ秀就から分け与えられた領地のうち都濃郡野上村を居住地と定め、1650年(慶安3年)にここを徳山と改名したのが徳山藩の始まりである。 しかし、どうもこの支藩は当初から本藩との仲が悪かったようだ。きっかけは1649年(慶安2年)、幕府から長州藩に割り当てられた江戸城の普請について、秀就が就隆に手伝ってくれ、と頼んだことだとされる。これを「財政が厳しい」…

【殿様の左遷栄転物語】不本意な褒美を受けた男 吉川広家

…て、毛利家は長州藩(萩藩)として存続することになる。彼が野心家として家康に内通したのであれば、そのまま二カ国を受け取る道もあったかもしれないが、広家はあくまで毛利家を存続させるために西軍を裏切ったのだ。なんとも裏目に出てしまったものだ。 その後、吉川家は毛利の領国から3万石(後に公称6万石)を与えられ、岩国の地を拠地としたが、この家の立場は非常に微妙なものだった。家督相続や将軍交代など大きな儀式の際には江戸へ行くし、税や待過などの面でもかなり大名に近いものだったのだが、名目上…

【江戸時代のお家騒動】船橋事件 家臣同士の権力闘争は喧嘩両成敗に

…山藩へ、兼平と乳井を萩藩へ預けることを決定する。 こうして事件はひとまず落ち着いたわけだが、その後に兼平・乳井派の者が多く藩を去っており、信義にとっては彼ら譜代家臣を失ったことは手痛い損失といえた。また一連の事件は、船橋の傲慢な態度によって引き起こされた騒動のように思われるが、兼平や乳井が船橋を憎んだ原因として「藩からの借財を申し入れたところ、武士の不覚悟を船橋に指摘され、そのことに腹を立てたから」とするものもある。それを考えると、一概に船橋を悪と決め付けることはできないだろ…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する