館林藩 の検索結果:
…げんこうろく)幕末の館林藩士・岡谷繁実(おかのや しげざね)が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた人物列伝。 三河物語(みかわものがたり)江戸時代初期に旗本の大久保忠教(おおくぼ ただたか。通称の彦左衛門で有名)の著作。大久保忠世(おおくぼ ただよ)の弟。 常山紀談(じょうざんきだん)備前岡山藩主・池田氏に仕えた徂徠(そらい)学派の儒学者・湯浅常山(ゆあさ じょうざん)の著作。江戸時代中期の人物。 武野燭談(ぶやしょくだん)17…
…。結婚したのは綱吉が館林藩主だった頃。綱吉との関係はあまり良好ではなく、夫の寵愛は江戸庶民の出身である側室のお伝の方の方へ向いていたといい、信子は京都から公家の娘を呼び寄せて側室にしたという話がある。あくまで伝説・怪談の類ではあるけれど「信子が綱吉を殺害し、自分も自殺した」などという話まである。当時の人は信じたようだが、実際には信子は麻疹で亡くなったらしい。 近衛熙子 【生年1666年〜没年1741年、結婚1679年】六代将軍家宣の正室は「近衛熙子(このえひろこ)」、院号は「…
…なえだ)、家宣の弟で館林藩主の松平清武(まつだいら きよたけ)、そして吉宗という面々だった。この中で吉宗が選ばれたのは、御三家の中で二番目という家格もあったろうが、それ以上に家宣の正室および彼女の周辺の老中たちが彼を推したことが大きかったようだ。 このように、人事は本人の性質だけでなく(もちろん、吉宗が紀伊藩政で改革に成功していたことは評価されただろうけれども)、そのときの状況やライバルの有無、人事に発言権のある人間の存在などにも大きく左右されて決定されるものなのである。 御…
…ため、浪人生活を経て館林藩時代の綱吉の家臣となった。そして、その息子が綱吉の小姓となる――これが吉保(このころの名は保明)である。 やがて吉保は加増により武蔵国川越藩の藩主となる。さらに老中上席――すなわち老中より上の格、大老格となり、「松平」の姓と「吉」の字を受け、「松平吉保」と名乗るようになった。これは徳川一族にも匹敵するような「特別扱い」だ。また、綱吉は58回にわたって柳沢邸を訪れており、一度などそこで公事を行ったほどである。 綱吉による吉保への寵愛はこれにとどまらず、…
…り、もともとは上野国館林藩主だった。とはいっても館林に赴いたことはほとんどなく(史料上確認できるのは一回だけだという)、江戸の神田御殿に居住し、そこで藩政を執っていた。 ここには約500人の家臣団(士分、ただし与力や同心は含まない)がいたとされる。うち6割ほどはもともと直臣だったりその子弟だったりで、前章で紹介した付家老とその一族たちに立場が近い、といえる。残りの約4割は別の大名家に仕えていた過去があったり、綱吉の縁故関係だったり、そして土豪や浪人の出身であったりした。 16…
… きよたけ=家宣弟、館林藩主)といった御三家や親藩大名の面々が候補として残され、その中から吉宗が選ばれて将軍となった、というわけだ。ちなみに、吉宗以前に分家から将軍が出た場合、その分家は消滅していたが、紀伊藩はそのまま存続している。 これだけ異例の出世を遂げただけに、「吉宗が将軍になった裏には、何かの陰謀があったのでは」という見方が当時からあったようだ。兄たちの死、将軍の死、吉通の死の陰で、吉宗の手が動いたのではないか――噂の域を出ない話ではあるが、疑われても仕方のない幸運で…
…い。すなわち、綱吉が館林藩時代の家臣たちを幕政においても重用したように、家宣もまた甲府藩時代からの家臣を登用して自らの政治を行ったのである。さらに、側用人を置いて老中と距離をとり、自らの意思を幕政に強く反映させようとしたのも綱吉時代と同じだ。 家宣の治世下において特に重用されたのはふたり。ひとりは間部詮房(まなべ あきふさ)で、猿楽師から小姓を経て大名にまでなった人物である。仕事熱心な無私の人であり、また人柄も温厚で、大出世を遂げながらそれに溺れることもなかったという。いまひ…
…の四男であり、上野国館林藩に25万石を与えられた親藩大名であった。1680年(延宝8年)、そんな彼が将軍となったのは、兄・徳川家綱が子を残さずにこの世を去ったからだ。家綱時代に権勢を振るった大老・酒井忠清は徳川家の血筋がいくつも残っていたにもかかわらず、あえて後西天皇(ごさいてんのう)の皇子・幸仁親王(ゆきひとしんのう)を擁立しようとした、という。これに対し、綱吉を擁立する老中・堀田正俊(ほった まさとし)は病床の家綱を説得。これを了承した家綱が弟に「お前を養子にし、将軍職を…