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明智光秀と今川義元――あるいは貶められたイメージ

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今川義元という人に、あなたはどんなイメージを持っているだろうか。「桶狭間で織田信長に敗れた人」以上のことは知らない、という人も多いかもしれない。
あるいは、ゲームや漫画などで戦国時代を知った人なら、「公家かぶれ、文化かぶれ」というイメージを強く持っている人も少なくないはずだ。コーエーテクモゲームスのゲーム『戦国無双』シリーズの義元などはその最たるもので、白塗り、公家姿、そしてなにより蹴鞠で戦うというかなり滑稽で情けないキャラクターになっている。
ゲームキャラクターとしては魅力的だし、実際のところ義元が文化の振興に熱心だったことは事実なのだ。デフォルメとしては十分あり、と言っていいだろう。――だが、歴史上の事実としては大間違いである。

現在「麒麟がくる」で描かれている時期、今川義元は日本屈指の戦国大名であった。その通称は「東海一の弓取り」。これは「東海道地方で一番の武将」の意味である。のちには徳川家康の呼び名になったが、当時は義元こそがこう呼ばれていた。ただの公家かぶれにそんな異名がつくはずもない。義元は武田信玄や北条氏康らとも張り合った、戦国時代を代表する名将の一人であったのだ。

そもそも、今川家は源氏の名門である。室町幕府で将軍職を継承した足利家の分家、吉良家のさらに分家で、「足利が絶えなば吉良が、吉良が絶えなば今川が将軍を継ぐ」と言われたほどの家だ。
本拠地は駿河で、戦国大名としての躍進を始めたのは義元の父、氏親の代。彼が家督を継承するにあたっては内紛があり、叔父に当たる北条早雲(伊勢新九郎)の助けがあり、それがまた戦国大名・北条家の出発であったことはよく知られている。

氏親の代には隣国・遠江へ進出し、またやはり有名な分国法「今川仮名目録」を制定して戦国大名としての制度を整えるなど大きく勢力を伸ばしたが、彼が死ぬと再び内部が揉めた。後継者争いだ。
これに勝利したのが、父によって僧侶にされていた幼き日の義元であった。以後、義元は今川家を繁栄に導いた。北と東に向かっては有力大名である武田・北条と丁々発止のやり取りを繰り広げてその拡大を止め、一方で西に向かっては遠江を完全な支配下に収めるとともに三河までもほぼ手中に収めた。

そんな義元がさらなるターゲットとしていたのが尾張であり、その支配者となりつつあった織田家(信秀・信長の弾正忠織田家)であったのだ。信秀・信長親子は三河や尾張の支配権を巡ってたびたび義元と戦い、一進一退の攻防を繰り広げた。
義元最後の戦いとなる「桶狭間の戦い」も、実はこの争いの延長線上にあった。後世しばしば「義元が上洛して天下を取るための戦いであった」と語られるが、実際には尾張獲得が目的であったようだ。だが、この戦いこそが名将の命取りになる――。

これほどの大名の評価がここまで低いのはなぜだろう。ひとえに、織田信長の立身出世物語において敵役として必ず登場する、そのポジションが原因であろう。物語としてのわかりやすさ、信長との対比から、滑稽なキャラクター性が付与されたものと考えられる。そんなところは、「改革者信長を殺し、立身出世の秀吉に倒された」が故に保守的で頭の固い武将としてキャラクター化されてしまいがちな光秀に似ている、と言っていいかもしれない。

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