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明智光秀と近衛前久――あるいは「本能寺の変朝廷陰謀説」?

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いよいよ放送再開した「麒麟が来る」にあわせて、本連載も再開する。その第一弾はすでに劇中にも登場している公家、近衛前久である。
なるほど、戦国時代第一の主役は武士であるかもしれない。彼らの武力こそがこの動乱の時代を動かし、そしてやがて収束へ向かわせていったからだ。だが、百姓、商人、僧侶、そして公家といった人々もそれぞれにこの時代を生き、時に武士以上の活躍をすることもあったのは事実だ。近衛前久はまさに、並の武士以上に戦国時代を動かしたうちのひとりである。

彼が生まれた近衛家は藤原一族でも主流にあたり、公家の頂点に立ち摂政・関白になる資格がある名門中の名門公家であった。
同格の家は合計で五つしかなく、「五摂家」と呼ばれる。前久もまた関白になるのだが、1560年(永禄3年)に突然京を離れ、越後へくだってしまう。しかも関白のままで。

とても公家とは思えないこのふるまいの背景にあったのは、長尾景虎(上杉謙信)との盟約であった。
名門・上杉氏の名と関東管領の地位を継承して東国の混乱を治めようとしていた彼を助け、最終的には景虎に兵を率いての上洛をさせようとしていたのである。そうすることで戦国時代を終わらせることができると信じたのだろう。景虎を助けるために越後どころか上総・下総まで赴いているのだから相当な決心があったはずだ。しかし、景虎は武田氏や北条氏との戦いに忙しく、ついに上洛することは叶わなかった。1562年(永禄5年)に京へ戻る前久の心は失意に満ちていたであろう。

1568年(永禄11年)、前久が期待をかけていたのとは別の人物が兵を率いての上洛を成功させた。もちろん、織田信長である。
前久は反信長側についた。信長自身と対立があったのではなく、彼が擁立した足利義昭と意見が合わなかったせいである。京を離れ、石山本願寺に身を寄せて信長と対立したが、政敵の義昭が京を追放された後に和睦して京に戻った。
以後の前久は信長の協力者と言ってよい立場を通した。九州諸大名の争いの調停、石山本願寺を大坂から退去させるための外交交渉に動いたり、織田軍の甲斐攻めに同行したりしている。歌、書、礼儀作法、馬術などの各種教養に秀でた趣味人である一方、公家にしては珍しく地方へも盛んに出た人(結果として文化の伝播に貢献したとされる)であったから、ときに田舎者とみられがちな信長とも相性が良かったのかもしれない。鷹狩は共通する趣味でもあった。

ところで、この時期の朝廷における中心人物の一人だったこと、また「本能寺の変」に際して明智軍が前久の屋敷から二条城を撃ったことから、前久こそは光秀を操った「本能寺の変の黒幕」だったのでは、という疑いをかけられることもある。
ただ、信長と前久の関係の深さを考えると、ちょっと信じがたい。
それだけ関係が深かったせいもあってか、信長死後の前久は精彩に欠ける。出家して政治から離れるも、羽柴秀吉との折り合いが悪く、一時京を離れることになった。この頃は徳川家康の庇護を受けていた。やがて京に戻れたかと思ったら秀吉と家康が争い始めたのでまた離れると、情勢に翻弄された。晩年は銀閣寺に隠棲した。

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