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【クーデターで読み解く日本史】有力守護大名を弱体化させた義満の策略――土岐康行の乱

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1389年(康応元年)~1390年(明徳元年) ○室町幕府 ×土岐康行

康暦の政変で独裁のための下地を作った足利義満は、独自の思惑で動く有力守護を抑えるために動き出した。最初に狙われたのが、康暦の政変(こうりゃくのせいへん)において反細川頼之(ほそかわ よりゆき)で積極的に行動した土岐氏だった。

当主の土岐頼康(とき よりやす)が亡くなり、息子の康行(やすゆき)が亡くなった父から美濃・尾張・伊勢の守護職を継承する予定だったところ、義満がこれに首をつっこんで、尾張守護のみ弟の土岐満貞(とき みつさだ)のものとしたのである。
こんなことをすれば、兄弟が争わないはずがない。そもそも満貞には兄を倒そうという野心があり、従兄弟の尾張守護代・土岐詮直(とき あきなお/のりなお)について将軍に色々と議言して、兄と従兄弟をともに反逆者に貶めてその地位を奪おうとしていた、とする説もある。

満貞の思惑はともかく、1388年(嘉慶2年)に守護として尾張に入った彼を、康行と詮直が迎え撃った。
これを幕府に対する反乱と受け取った義満は軍勢を派遣する。いかに有力守護であっても幕府軍にはかなわず、二年後には攻め滅ぼされてしまう。満貞に野心があったならば願ったりかなったりというところだったろうが、上手だったのは義満のほうだった。戦後、土岐氏の勢力は三つに分けられてしまい、かつてのような力はすっかり失われてしまったのである。

当てが外れたであろう満貞にも尾張守護の地位は残されたが、後にその職を罷免されてしまっている。
一方、康行は後にその罪を許され、伊勢守護に戻った。

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