攻城団ブログ

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細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

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NHK大河ドラマ「どうする家康」では新解釈の信康事件(築山殿事件)が描かれましたが、岡崎城周辺にあるふたりのゆかりの地レポートを京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの細川玉子さんに書いていただきました。
信康事件は謎の多い事件ですが、現在提唱されている諸説も整理してくださっているのでドラマの復習にもなると思います。

皆々様、ご機嫌麗しゅうございます!
京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの、細川玉子にございます。

いつも記事をご覧くださり、本当にありがとうございます!

此度は【どうする家康 岡崎 大河ドラマ館】へ伺った際に、岡崎市にございます家康様のゆかりの地も巡りましたので、そちらを記事に綴らせていただきます。

「どうする家康」にて、とても話題になっておられる人物。
慈悲深く聡明で強い瀬名様、そして心優しく誠実な信康様。
そんなおふたりのゆかりの地をご紹介いたします。

まず、巡る範囲が広いこともありますので、岡崎駅前にて、レンタサイクルをお借りしました。
こちらが…電動自転車なる、とても便利なお品!

しかも、井伊直政様仕様の自転車でした!
とても素敵😊

なお、わたくしは初めて電動自転車を使用させていただきましたので、どきどきいたしました😀
無事にお借りすることも出来ましたので…
いざ!出陣!

まずは、瀬名様ゆかりの地から巡って参ろうかと思います。
最初に到着いたしましたのは、祐傳寺(ゆうでんじ)です。

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祐傳寺は、岡崎市役所の近くにある、とても静かで小さなお寺でございました。
こちらには瀬名様(築山御前)の首塚がございます。
どちらかな?と思っておりましたら、入ってすぐの左手側に見つけることが出来ました。

こちらの小さな五輪塔が、瀬名様の首塚です。
とても静かにひっそりと、そこにございました。

徳川家康様とご正室の瀬名様の長男、松平(徳川)信康様は、織田信長様の娘、五徳姫様(徳姫様とも呼ばれる)をご正室に迎えておりました。

その後、その五徳様が信長様へ向け書いたとされる“十二か条の訴状”が元ととなり、武田家との関係を疑われた瀬名様は、徳川家の将来を危惧した徳川家家臣により自害をせまられますがそれを拒み、佐鳴湖に近い小藪村にて殺害されてしまいます。
(この殺害は家臣達の独断とも伝わります)

なお、上記のお話が通説となってはおりますが、その他にも…

  • 侍女が身代わりとなって、瀬名様は尼となり生き延びた説(この時に侍女が瀬名様の死を嘆き入水自殺をしているそうで、実はこの侍女の首をはね、瀬名様が亡くなったように見せかけた?)
  • 殺害はされますが、状況が違うという説
  • 家康様は幽閉のみに留めるつもりであったが、瀬名様が自ら命を絶ったのではないかという説

など自害についても、場所や状況に様々な説があるようです。
その瀬名様のお首は、安土城にいた信長様の首実検を受けた後、家康様のご家臣・石川数正様がお首を持ち帰り、こちらの祐傳寺に葬ったとされております。

戦国の姫も、苦しい最期を迎えている方も多くおります。
わたくしも、幸せな最期だったとは言えないのかもしれません。
ただ、瀬名様のこのお話は……このように綴っているだけでも、とても痛ましい出来事と思います。
どうか瀬名様が安らかに眠られていることを祈るばかりです……。

お次は、信康様のゆかりの地を目指したいと思います。
岡崎市には、信康様の首塚もございます。

そちらがこちら、若宮八幡宮です。

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こちらも祐傳寺と同様に、静かでひっそりとした場所でございました。
ただ、とても広々としており、歴史を感じられる境内でした。
信康様の首塚は? と見渡しておりましたら、拝殿の向かって右側にございました。

こちらが、信康様の首塚です。

周囲を囲われており、アクリル板越しのお詣りとなりました。
大切に守られている、そのように感じました。

五徳様が書かれた“十二か条の訴状”には、瀬名様と同様に信康様も武田家に内通していると書かれていたとのこと。
それを元に信長様は、瀬名様と信康様の処断を家康様に迫られたそうです。
家康様は何とか出来ないかと様々に動かれたそうですが、結果的に大切なおふたりを失うことになりました。

信康様は1559年(永禄2年)に駿府にて誕生されます。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしましたが、桶狭間の戦い後に、今川方の鵜殿氏長殿・氏次殿との人質の交換により瀬名様と共に家康様の元に戻り、岡崎へ移ります。
この人質交換のお話は、どうする家康でも話題になりましたね。

その後、1567年(永禄10年)に9歳で、信長様の娘で同じ年齢の五徳姫様とご結婚され、岡崎城で共に暮らされます。
同年6月には家康様が浜松城へ移られ、岡崎城を譲られることに。この時、瀬名様も嫡子生母として岡崎城に入られたそうです。
さらに1570年(元亀元年)、わずか11歳で、岡崎城主となられたとのこと。

1573年(天正元年)には、足助城攻めで初陣を飾り、1575年(天正3年)5月の長篠の戦いでは、17歳で徳川軍の一手の大将として参加。
武田氏とのいくつかの戦で軍功を挙げ、殿を務めるなど勇猛さも注目され、ご活躍されたと伝わっております。

その一方で、気性が激しく、乱暴な振る舞いが多かったというお話も伝わっております。
どうする家康でも触れられていましたが、鷹狩りの場でたまたま出会った僧侶を殺害したというお話もございます。
(狩りの際に僧侶に出会うと獲物が少なくなるという話を信じたとされています)
なお後日になりますが、信康様はこのことに関して謝罪しているそうです。

ただ、大河ドラマのように、心優しく繊細な方だったからこそ、終わらない戦ばかりの日々の中で、人が変わってしまったという捉え方も出来るのかと思います。
その後……1579年(天正7年)、信康様は21歳という若さで、遠江二俣城にてご自害されます。

信康様と瀬名様の死へ繋がったとされる"十二か条の訴状"――なぜ信康様の妻である五徳姫様が、瀬名様や信康様を咎めるような"十二か条の訴状"をお書きになったのでしょうか?

信康様と五徳姫様の間には、後継者となる男児がおられませんでした。
五徳姫様が産んだお子がふたりとも女子だったため信康様が腹を立て、夫婦の仲が冷え切ったとされ、さらに瀬名様がこのことをなじり、信康様に側室を娶るよう勧めたそうです。

信康様は、旧武田家臣の浅原昌時の娘や、日向大和守時昌の娘を側室としたとされます。(このふたりの娘は同一人物説もあるとのこと)
こういったことが原因となり、五徳姫様のお心の中におふたりへの憎しみが生まれ"十二か条の訴状"へと繋がったとのお話がございます。

ただ、瀬名様と信康様の死については、様々な説があるそうです。

信長様がふたりの殺害を命じたとされることに矛盾を感じるとする説

この当時、信康様と瀬名様の処断を求めたとされる信長様自身が、蹴鞠や相撲などの見物に興じており、徳川家と緊張状態ではなかったとのこと。
さらに実は、信長様は信康様の処断についてのみ触れているそうで、瀬名様については何も仰っていないとのお話もあるそうです。

家康様自身が殺害を命じたとされる説

信長様は「信康を殺せ」とは伝えず「家康の思い通りにせよ」と答えているそうです。
つまりは家康様自身の判断で、瀬名様と信康様を殺害したとされる説です。

家康様と信康様の不仲説

事件が起こる前から、おふたりの不和を感じさせる行動があったそうです。
家康様自身が、自分の子育てに対する反省を述べた資料も残っているとのこと。
信康様が信長様を軽んじ家康様の命に背いたり、家臣達にも厳しく接し見限られたとされ、そういったことが原因となり、親子の不和に繋がったという説もございます。

浜松城派と岡崎城派の対立説

武功や出世の機会を多く得ていた浜松城派と、後方支援や外交問題、怪我をされた方々の治療など多くの問題を抱えていた岡崎城派で、徳川家の中で分断する兆しがあったそうです。
不満を感じていた岡崎城派が信康様を担げ、家康様と信康様の対立に繋がったとされる説です。
これに瀬名様も関係していたのではないか? とのお話もあるそうです。

大岡弥四郎事件との関与説

大岡弥四郎事件とは、岡崎で町奉行を務めていた大岡弥四郎殿が中心となり、武田氏に内通しようとした事件のことです。どうする家康でも描かれましたね。
この事件は徳川家中の動揺を抑えるため最小限の処分で終わったとされますが、その後も瀬名様や信康様、岡崎家臣団は武田氏に通じ続けていたするお話もあるとのことです。

家康様と瀬名様の不仲説

鵜殿氏の子息との人質交換で、家康様の元に戻った瀬名様でしたが、家康様と共に岡崎城に入ることはなかったとのこと。
瀬名様はまず岡崎城外の西岸寺に住み、その後、岡崎城より1kmほど離れた築山に屋敷を立て住むようになったと伝わります。そのことから「築山殿」と呼ばれるようになったそうです。
その後、信康様が岡崎城主となった際に、城主の母として岡崎城に入ったとされますが、同時に家康様は浜松城へお移りになられ……つまりは、桶狭間の戦後あたりからおふたりは別居状態。同居することはほとんどなかったことから、夫婦不仲説もあるとのことにございます。

――その他にも、信長様が自身の長男である信忠様と、家康様の長男の信康様を比べ、勇猛果敢な信康様が、おとなしいとされる信忠様の邪魔になるのではと考え、この機を使い、織田家の将来にとって危険性のある若い芽を、早々に摘み取っておこうと考えたとのお話もあるそうです。

なお、どうする家康でも描かれておりましたが、服部正成(半蔵)様の介錯にて、信康様は自刃されたとされますが、この際、介錯を頼まれた服部正成(半蔵)様が、その任に耐えられず刀を振り下ろせなかったそうです。
そして、検視役だった天方通綱(あまがた みちつな)殿が急遽、介錯されたというお話もございます。

何が実像で、何が虚像なのか……。

ただ、こうして五徳姫様により書かれた"十二か条の訴状"は、徳川家の重臣である酒井忠次様に預けられ、信長様の元に届きました。
信長様は内容について「これはどうだ?」とひとつひとつ、酒井様に問いただしたとされます。
その際に酒井様は「その通りでございます」と答えたと伝わっております。

酒井様が十カ条まで事実だと認めたところで、信長様は残る二カ条には目を通さず「徳川家の家老が認めるのであれば事実に間違いなかろう」と述べられ、酒井様へ信康様の処罰を家康様に伝えろと命じたとされています。

そして信康様は、遠江(浜松)の二俣城で「我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ」と言い残し、21歳の若さで自刃されることに……。

信康様は、浜松市の清瀧寺に葬られております。
お首は信長様に実検されたあと岡崎へと返され、家康様の命を受けた清水万三郎殿が、投村根石原(現在の朝日町)に埋め、印の松を植えたと伝わっております。

その後、徳川家の重臣、石川数正様が岡崎城代となりましたが、信康様の死後、岡崎城内にて怪異現象が度重なったそうで……。
この境内に供養塔の首塚を建て、丁寧に合祀されました。

様々な説をお話し長くなってしまいましたが、最後にもうひとつ、瀬名様ゆかりの地、 八柱神社(やはしらじんじゃ)をご紹介いたします。
こちらにも瀬名様の首塚がございます。

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こちらでもどちらに首塚があるのか? と探しておりましたら、境内の奥の林の中にございました。

瀬名様のお首は、最初にご案内した祐傳寺(ゆうでんじ)に埋葬されたのですが、1646年(正保3年)に水野大監物殿により、欠村石ヶ崎へ移されることになったそうです。
そしてこちらが現在の八柱神社にある築山御前首塚です。

八柱神社の首塚は五輪塔になっており、1977年(昭和52年)に八柱神社の宮司様や氏子一同により建てられたそうです。
まだまだ新しさを感じ、徳川家の三つ葉葵が掘られているのも、はっきりと分かりました。

なお五輪塔は、印度(インド)の五大思想をもとに作られており、地面に近い方から地・水・火・風・空を表しているとされております。
五輪塔に納骨することで、故人が極楽浄土へ参ることができるという意味が込められております。

皆様の瀬名様への慈悲の心を感じました……。
そして、八柱神社にて、瀬名様は【築山神明宮(つきやましんめいぐう)】として、信康様は【若宮大権現(わかみやだいごんげん)】として祀られております。

玉子は……瀬名様の首塚の近くの石碑に記されておりました
されど生害に値するほどの罪悪であっただろうか
この一文が心に響きました。

瀬名様も信康様もひとりの人間であり、明日をもわからぬ戦国乱世を生きておりますと、様々な想いが巡るものです。
人間はそんなに強くはない。それは今も昔も変わらぬことと思います。

残されている、伝わっている史実に対し、本当にそうだったのか? こうだったのではないのか? 私ならこう感じる等と、疑問を持ち考えてくださることで、新たな発見が生まれる。

真実はとどのつまり、本人達にしかわからぬこと……。されど、わかろうとすることはできると思います。
寄り添おうとすることで見えるもの、見える歴史があるのではないかと、そのように感じた旅でした。

藤の花が豊かに咲く季節に、岡崎市を巡らせていただきました。
どうする家康で描かれていた築山は、花々が美しい土地でしたね。
どうか、瀬名様、信康様が築山のような穏やかな場所にて、心安らかに過ごされていることを願います……。

此度も長文をお読みくださり、本当にありがとうございます。
それでは、京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの、細川玉子でした。
ありがとうございました。

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