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【家康の謎】徳川四天王は誰が決めたの?

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榎本秋の家康の謎

家康ものの大河ドラマでは必ず活躍する「徳川四天王」といえば、本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政の4人である。
「四天王」というのは仏教世界観の話で、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)という東西南北=四方を守護する天(仏の一種)のことである。ここから転じて、なんらかのグループにおける傑出した4人の実力者のことを「四天王(○○四天王)」と呼ぶようになった。
徳川四天王という名付けも、その流れを受けてのものである。しかしこの呼び名、戦国時代からあったのだろうか。

蜻蛉切(とんぼきり)の使い手で生涯一度も手傷を負わなかったという伝説を持ち、旗本先手役という家康直属の精鋭だった本多忠勝。家康よりも年長で、長く石川数正と並ぶ徳川家の重臣・家老として軍事・政治の両面で活躍した酒井忠次。忠勝と同じく旗本先手役を務め、家康から「康」の一字をもらった榊原康政。
――ここまでの三人はどれも譜代家臣だが、大きくふたつの系統にわかれ仕えた時期にグラデーションがある本多氏、ルーツは松平と繋がるという酒井氏、家康の父の代になって松平に仕えた榊原氏と、家康との関係性にはけっこうな違いがある。

さらに、最後のひとりである井伊直政に至っては、忠勝・康政と同じく旗本先手役を務めたのだが、そもそも家康以前からの譜代家臣ではない。
井伊氏はもともと遠江国井伊谷の国衆で、今川氏の支配下にあった。しかし今川氏との関係悪化の中で幼い直政は各地を転々とすることになり、やがて家康と出会ってその小姓として仕えることになる。徳川家中の井伊氏の躍進は、家康と直政の個人的な信頼関係によるところが大きかったろう。

また、この四人は年齢もかなり違う。忠次は家康よりもかなり年齢が上で、忠勝と康政は家康より少し年下で同年代、直政はずっと年下という具合である。これでは、同時代を生きる人々にとって、四人を「四天王」というひとつのグループでまとめて認識するようなことはなかったのではないか。
こうなると、「徳川四天王」という呼び名が、彼らが生きた時代にあったとはちょっと考えづらい。じっさい「徳川四天王」という呼び名の発祥は不詳であるようだ。誰がこのように命名し、4人を選んだのかはわからないが、江戸期を通じて巷に広がったのだろうと想像はできる。
徳川四天王の家系である本多、酒井、榊原、井伊の四家はそれぞれ高禄の譜代大名として江戸時代に残っていった。彼らの子孫の立場から逆算して、「徳川四天王」という名前がついたのではないか。

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