攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

三木城 の検索結果:

【現在1759城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…2020年8月8日 三木城 御城印 三木城(兵庫県三木市) みき歴史資料館 200円 印刷 A6 2020年8月5日 赤木城 御城印 赤木城(三重県熊野市) 道の駅 熊野・板屋九郎兵衛の里 330円 印刷 縦14.85cm、横10.5cm 2020年7月30日 鶴舞城 御城印 鶴舞城(千葉県市原市) つるまいホープラザ、道の駅 あずの里いちはら、千葉ポートタワー 300円 印刷 2020年7月23日 山口城 御城印 山口城(岐阜県本巣市) 道の駅 織部の里もとす、モレラ岐阜…

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

…の際、すでに病を患っていた彼は三木城攻めの時、療養のために京に戻されていた。しかし、はかどらない戦の状況を聞くと舞い戻り、力押しでは落ちないこの城を兵糧攻めするように進言すると、陣中で病没する。この時に戻ってきた理由を問う秀吉に対して彼は「陣中で死にたかっただけ」と答え、秀吉は彼の死体に取りすがって大いに泣いたのだった。 まだ36歳という当時からしても早い死であり、「その後彼が生きていればどれだけのことをしたのだろう」という痛惜の念が、後世の様々な創作につながったのであろう。

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…あったのだ。 まず「三木城の干殺し」から紹介する。秀吉の中国侵略は現地の案内や諸勢力の説得などの官兵衛の協力もあって順調に進み、但馬(現在の兵庫県北部)を平定したところで一度戻って信長に報告していた。ところがこの隙に、一度信長に帰順したはずの播磨(現在の兵庫県西部)三木城の別所長治が1578年(天正6年)に毛利側に寝返り、他の勢力にも働きかけて反旗を翻す。 秀吉はすぐに播磨に戻って三木城を攻めるが、この戦いはかなり長く続くことになった。この城が播磨一の堅城と呼ばれる堅固な城で…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑤――飢えて落ちた城・鳥取城

…―そこで秀吉は播磨の三木城に続き、再び兵糧攻め作戦を取る。しかも今回は、あらかじめ因幡中の米を買い占めておき、かつ農民たちを虐待して城に避難するよう仕向けた。兵糧攻めで早く城を落とすためには、城内の兵糧が早く尽きる必要がある。米を買い占めれば備蓄がしにくくなるし、農民が城に入れば兵糧が尽きる速度も早くなる。そのような計算があったわけだ。秀吉は周辺の支城をすべて落として鳥取城を孤立させ、さらに陸路だけでなく海路も封鎖した上で、城を包囲した。戦国時代における攻城戦の中でも一、二を…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく④――支城を漬され、大名の逃げた城・有岡城

…、羽柴(豊臣)秀吉の三木城攻めの最中に反旗を翻した荒木村重の籠もった摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)もまた、支城を落とされて孤立し、追い詰められることになった。有岡城は1574年(天正2年)に村重が入るまでは伊丹城といい、村重によって攻め滅ぼされた伊丹氏の拠点であった。平城であり、城下町全体を取り囲む惣構えを備えていた。『日本史』で知られるポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが「壮大にして見事なる城」と書き残していることから、結構な規模であったらしい。 村重は信長に忠実で、彼の近…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく③――支城を潰され、草木も食い尽くした城・三木城

播磨の三木城(兵庫県三木市)は、長享年間(1487~89年)に築かれて以来、播磨の有力豪族である別所氏の居城とされた城である。平山城(丘城)に分類される。別所長治(べっしょ ながはる)の代に羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで落城し、その後秀吉の家臣である杉原家次(すぎはら いえつぐ)が代官として入る。関ヶ原の戦いののちに、東軍に味方した池田輝政が播磨に入った際、その家老。伊木忠次(いぎ ただつぐ)が三木城主となった。 長治と秀吉の関係は当初は良好だった。秀吉が織田氏の中国方面司令官…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑨――見捨てられた城・上月城

…より謀反していた播磨三木城の別所長治の存在が大きな問題となり、中国東部におけるパワーバランスが一気に崩れつつあったのだ。 それでも、秀吉としては折角手塩にかけて育ててきた尼子残党を見捨てられなかったのか、しばらくはここに留まっている。だが、それも信長から三木城攻撃を命じられるまで。信長は尼子残党を見捨てたのであり、こうなっては秀吉にできることは何もなかった。 織田軍は撤退して三木城の包囲に移り、残された上月城の尼子氏には降伏以外の道がなかった。3万余りの毛利軍に対し、籠城側は…

【戦国時代の境界大名】亀井氏――毛利氏との御家再興をめぐる死闘に転機到来!?

…当初は別所氏の居城・三木城(兵庫県三木市)攻めに力を注いでいたが、上月城が取り囲まれるや転じてその救援に駆けつけていた。尼子再興軍を見捨てれば「織田は薄情だ」と風間が広まり、中国地方への侵攻に不利になると見たからだろう。だが、信長はそれを認めなかった。別所氏が長く残ることによる危険と、尼子再興軍を救わないことによる危険を天粋にかけて、前者を重視したのかもしれない。あるいは、上月城を救うことは無理だと判断したのかもしれない。どちらにせよ、秀吉は主君の命令に逆らうことはできなかっ…

【江戸時代のお家騒動】大谷吉継による家臣団継承 越前国5万石の民生安定

…攻し、秀吉が上月城、三木城と攻めていく中で、吉継もその戦いに加わっている。 1583年(天正11年)、織田信長の死後、その後継者をめぐって賤ヶ岳の戦いが勃発。吉継はまたしても羽柴軍として戦いに参加した。この戦いで特に活躍した者たちが「賤ヶ岳七本槍」の名で有名だが、吉継や三成はその中に入っていないものの、それに劣らないほどの活躍をしたと伝えられている。このように秀吉のもとで戦功を重ねた吉継は、1585年(天正13年)に従五位下刑部少輔に任じられる。こうして吉継は、政権の中心を担…

一命にかけて兵を救った清水宗治

…吉)である。鳥取城と三木城を兵糧攻めによって落とした秀吉は、次の目標を宗治の守る高松城とした。とはいえ知略で知られる秀吉のこと、いきなり無理攻めをしたりはしない。まずは宗治を裏切らせようとしたし、これを断られると「境目七城」のほかの城を落として高松城を孤立させてしまったのである。 それでも頑として揺るがない高松城を攻め落とすために秀吉が敢行した作戦こそ、世に名高い「高松の水攻め」だ。近くの川をせき止めて水を引き込み、もともと低湿地にあった高松城を水浸しにしてしまったのである。…

【戦国を彩る名軍師たち】実は外交・交渉で活躍した蜂須賀正勝

…の将である前野長康の三木城3万2千石であったことを考えれば、彼らの尽力の度を推し量ることができるだろう。特に、中国方面司令官となった秀吉が毛利氏と戦い、現地の諸勢力と交渉するにあたって、正勝は大いに活躍したとされる。小なりといえど実質的な独立勢力の主であった彼の経験は、成り上がり者の秀吉にとって大きな支えになったはずだ。 正勝は軍師の仕事の中でも最も重要な「外交」「交渉」、すなわち敵勢力を切り崩すとともに味方を強化する役目を果たしたのであり、宇喜多直家や安宅直康といった武将た…

【戦国武将の御朱印集め】山中鹿之介のお墓がある本満寺の御朱印をいただいてきました(京都・日蓮宗)

…城するものの、信長に三木城の攻撃を優先するよう命じられた秀吉の援軍はなく、降伏しました。生け捕られ人質となった鹿之助は、備中松山城に在陣する毛利輝元のもとへ移送される途中で謀殺されました。 (安来市立歴史資料館蔵) 岡山県高梁市で殺された山中鹿之介のお墓がなぜ京都にあるのかというと、鹿之助の長男とされる山中幸元(鴻池直文)が江戸時代以降の豪商・鴻池財閥の始祖となったからで、どうやらその子孫である鴻池家の誰かが、本満寺に墓所を建てたという話です。真偽は不明ですが、鴻池財閥と山中…

鳥取城 日本史に残る、凄惨な籠城戦の舞台

…はそんな時だ。秀吉は三木城を開城させた後、さらに西へと目を向けた。備前の宇喜多直家は降伏を申し出て、但馬は秀吉の弟・秀長によって平定されていた。そこで秀吉の次なる標的が因幡となった。 1580年(天正8年)、秀吉の大軍が鳥取城を攻め、山下の町を焼き、別の城にいた人質を使って豊国に開城を迫った。人質の娘に槍がつきつけられ、豊国はたまらず開城を申し出ることになる。 翌1581年(天正9年)に、豊国の代わりに吉川経家がこの城に入っている。経家は毛利両川・吉川元春の一族。毛利両川は戦…

三木城 長期籠城の末に飢えた城

…ー | 別所長治像[三木城] 長治の居城の三木城(兵庫県三木市上の丸町)は丘の上に築かれた平山城(平野の中にある山、丘陵を利用して建てられた城)である。別所氏は赤松氏の一族であり、播磨の東部を支配していた。 そこに一石を投じたのが、尾張の戦国大名・織田信長であった。信長は各地に家臣を派遣して、領地の拡大を図っている。中国地方の平定を任されたのが、信長の家臣・羽柴秀吉だ。だが、いきなり中国地方に行けば、播磨の諸将に後ろから攻撃されることにもなりかねない。まずは中国地方への玄関口…

「第5回信長学フォーラム」参加レポート

…(まあのちに反乱した三木城には2年もかけてますけど)。じっさい秀吉のほうはさくさく攻め取って、山陰道のはずの鳥取城まで落としているわけで、ふたつのルートのどちらを担当したかで歴史が変わったというのはまさに「運」ですよね。 などなど、たくさんの話が聞けてとても楽しかったです。わざわざ京都から電車に乗って出かけたかいがありました(新幹線は使わず在来線で)。それに意外と近かったです。乗り換えが何度かありましたけど、ずっと座れましたしね。ICOCAで入っちゃって、岐阜駅で出れなかった…

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