攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

三木城 の検索結果:

【現在710城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…2020年8月8日 三木城 御城印 三木城(兵庫県三木市) みき歴史資料館 200円 印刷 A6 2020年8月5日 甲府城 御城印 甲府城(山梨県甲府市) 甲府市観光案内所 300円 印刷 2020年8月1日 鶴舞城 御城印 道の駅 あずの里いちはら、つるまいホープラザ 300円 印刷 2020年7月23日 山口城 御城印 道の駅 うすずみ桜の里、モレラ岐阜観光案内所、道の駅 織部の里もとす 300円 印刷 2020年7月23日 小山城 御城印 小山城(静岡県吉田町) 展望…

【戦国時代の境界大名】亀井氏――毛利氏との御家再興をめぐる死闘に転機到来!?

…当初は別所氏の居城・三木城(兵庫県三木市)攻めに力を注いでいたが、上月城が取り囲まれるや転じてその救援に駆けつけていた。尼子再興軍を見捨てれば「織田は薄情だ」と風間が広まり、中国地方への侵攻に不利になると見たからだろう。だが、信長はそれを認めなかった。別所氏が長く残ることによる危険と、尼子再興軍を救わないことによる危険を天粋にかけて、前者を重視したのかもしれない。あるいは、上月城を救うことは無理だと判断したのかもしれない。どちらにせよ、秀吉は主君の命令に逆らうことはできなかっ…

【江戸時代のお家騒動】大谷吉継による家臣団継承 越前国5万石の民生安定

…攻し、秀吉が上月城、三木城と攻めていく中で、吉継もその戦いに加わっている。 1583年(天正11年)、織田信長の死後、その後継者をめぐって賤ヶ岳の戦いが勃発。吉継はまたしても羽柴軍として戦いに参加した。この戦いで特に活躍した者たちが「賤ヶ岳七本槍」の名で有名だが、吉継や三成はその中に入っていないものの、それに劣らないほどの活躍をしたと伝えられている。このように秀吉のもとで戦功を重ねた吉継は、1585年(天正13年)に従五位下刑部少輔に任じられる。こうして吉継は、政権の中心を担…

一命にかけて兵を救った清水宗治

…吉)である。鳥取城と三木城を兵糧攻めによって落とした秀吉は、次の目標を宗治の守る高松城とした。とはいえ知略で知られる秀吉のこと、いきなり無理攻めをしたりはしない。まずは宗治を裏切らせようとしたし、これを断られると「境目七城」のほかの城を落として高松城を孤立させてしまったのである。 それでも頑として揺るがない高松城を攻め落とすために秀吉が敢行した作戦こそ、世に名高い「高松の水攻め」だ。近くの川をせき止めて水を引き込み、もともと低湿地にあった高松城を水浸しにしてしまったのである。…

【戦国を彩る名軍師たち】実は外交・交渉で活躍した蜂須賀正勝

…の将である前野長康の三木城3万2千石であったことを考えれば、彼らの尽力の度を推し量ることができるだろう。特に、中国方面司令官となった秀吉が毛利氏と戦い、現地の諸勢力と交渉するにあたって、正勝は大いに活躍したとされる。小なりといえど実質的な独立勢力の主であった彼の経験は、成り上がり者の秀吉にとって大きな支えになったはずだ。 正勝は軍師の仕事の中でも最も重要な「外交」「交渉」、すなわち敵勢力を切り崩すとともに味方を強化する役目を果たしたのであり、宇喜多直家や安宅直康といった武将た…

【戦国武将の御朱印集め】山中鹿之介のお墓がある本満寺の御朱印をいただいてきました(京都・日蓮宗)

…城するものの、信長に三木城の攻撃を優先するよう命じられた秀吉の援軍はなく、降伏しました。生け捕られ人質となった鹿之助は、備中松山城に在陣する毛利輝元のもとへ移送される途中で謀殺されました。 (安来市立歴史資料館蔵) 岡山県高梁市で殺された山中鹿之介のお墓がなぜ京都にあるのかというと、鹿之助の長男とされる山中幸元(鴻池直文)が江戸時代以降の豪商・鴻池財閥の始祖となったからで、どうやらその子孫である鴻池家の誰かが、本満寺に墓所を建てたという話です。真偽は不明ですが、鴻池財閥と山中…

鳥取城 日本史に残る、凄惨な籠城戦の舞台

…はそんな時だ。秀吉は三木城を開城させた後、さらに西へと目を向けた。備前の宇喜多直家は降伏を申し出て、但馬は秀吉の弟・秀長によって平定されていた。そこで秀吉の次なる標的が因幡となった。 1580年(天正8年)、秀吉の大軍が鳥取城を攻め、山下の町を焼き、別の城にいた人質を使って豊国に開城を迫った。人質の娘に槍がつきつけられ、豊国はたまらず開城を申し出ることになる。 翌1581年(天正9年)に、豊国の代わりに吉川経家がこの城に入っている。経家は毛利両川・吉川元春の一族。毛利両川は戦…

三木城 長期籠城の末に飢えた城

…ー | 別所長治像[三木城] 長治の居城の三木城(兵庫県三木市上の丸町)は丘の上に築かれた平山城(平野の中にある山、丘陵を利用して建てられた城)である。別所氏は赤松氏の一族であり、播磨の東部を支配していた。 そこに一石を投じたのが、尾張の戦国大名・織田信長であった。信長は各地に家臣を派遣して、領地の拡大を図っている。中国地方の平定を任されたのが、信長の家臣・羽柴秀吉だ。だが、いきなり中国地方に行けば、播磨の諸将に後ろから攻撃されることにもなりかねない。まずは中国地方への玄関口…

「第5回信長学フォーラム」参加レポート

…(まあのちに反乱した三木城には2年もかけてますけど)。じっさい秀吉のほうはさくさく攻め取って、山陰道のはずの鳥取城まで落としているわけで、ふたつのルートのどちらを担当したかで歴史が変わったというのはまさに「運」ですよね。 などなど、たくさんの話が聞けてとても楽しかったです。わざわざ京都から電車に乗って出かけたかいがありました(新幹線は使わず在来線で)。それに意外と近かったです。乗り換えが何度かありましたけど、ずっと座れましたしね。ICOCAで入っちゃって、岐阜駅で出れなかった…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する