攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

仙台藩 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…m、横10.6cm 仙台藩白老元陣屋 御参陣記念印 白老仙台藩陣屋(北海道白老町陣屋町) 仙台藩白老元陣屋資料館 300円 印刷 A5 魚住城 御城印 魚住城(兵庫県明石市) 茨木酒造 500円 印刷 福山城 御城印 令和の大普請版(令和4年版) 福山城(広島県福山市) 福山城管理事務所 200円 印刷 鬼ヶ城 御城印 通常版 鬼ヶ城(京都府福知山市) 福知山観光案内所・おみやげ処 300円 印刷 A6 久慈城 御城印 第1版 久慈城(岩手県久慈市) 道の駅 くじ・やませ土風…

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…降には奥羽藩南部家、仙台藩伊達家(名儀のみ白石藩片倉家)、庄内藩酒井家、姫路藩酒井家、出雲藩松平家、鳥取藩池田家、阿波藩蜂須賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。 またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲もあった…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…前藩に限らず、例えば仙台藩士・玉蟲左太夫(たまむし さだゆう)が著した『入北記』(安政4・1857)では、秋田藩のマシケ陣屋で行われた砲術演習は和式砲術によるかたちだけのものであったり、自らの属する仙台藩の白老陣屋では藩士が幕府役人に賄賂を渡し日がな釣りにいそしんでいるなど、北方防衛の弛緩ぶりを強く嘆いています) 1861年(文久元年)には、戸切地陣屋正面大通り沿いに本拠福山より藩士を移住させ、その屋敷が立ち並ぶ居住地を土塁で囲んでしまいます(図28)。これは、サヴァール教本…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…破壊されたが、政宗の仙台藩の中で彼の白石城だけが特例として残された。以後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治め続け、仙台藩では御一家として扱われ続けた。 景綱自身はのちに病に倒れ、伊達家も徳川方で出陣した「大坂の陣」には参加できなかった。しかし、冬の陣への出陣前の息子・重綱(しげつな)に「おそらく初めは和睦して堀を埋めるが、その後に本当の合戦が待っているだろう。決して猪突猛進になってはいけない」と伝えている。 実際に徳川と豊臣は一度は和睦したものの、謀略によって大坂…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…紹介します。伊達家が仙台藩・宇和島藩の藩主として江戸時代を通じて存続していったことはすでに紹介したとおりです。しかし、本家である仙台藩を継いだのは次男の忠宗で、長男の秀宗は別家の宇和島藩を継ぐことになりました。秀宗は庶子なのでそこまでおかしいことでもないのですが、実は「これが原因だったのでは?」と思える要素があります。それは、秀宗が豊臣秀吉の「秀」の字を賜り、また「豊臣」姓も授かるなど、豊臣家と深い関係をもつ人物だった、ということです。 じつは同じような話が他にもあります。佐…

【10大戦国大名の実力】伊達家⑤――地方勢力の栄光と悲哀

…である。 ちなみに、仙台藩には政宗の居城である仙台城とは別に、片倉小十郎の白石城という城があった。これは規模的には要害とあまり変わらず、「城」扱いをされたのは、片倉小十郎が豊臣秀吉に大名に取りたてられそうになった(実際は拒否)ことからきているのだという。残念ながらこれらの行動が天下取りに結びつくことはなかったが、独眼竜の日は最後まで天下を睨んでいたようだ。政宗の死後、伊達家は陸奥国仙台藩六十万石(実高は百万石とも百五十万石ともいわれる)として幕末まで存続。また、政宗の長子・秀…

【10大戦国大名の実力】伊達家①――地方勢力の栄光と悲哀

…江戸時代を通して続く仙台藩の礎を築いた一代の英雄、伊達政宗。彼は天性のパフォーマーであり、印象的なエピソードをいくつももって、人々に親しまれている。 さらに彼は、豊臣秀吉の政治体制確立中だけにとどまらず、徳川家康による江戸幕府が成立してからも、おのれの野望をおさめなかった。そのアグレッシブな人柄も、人気の秘密であろうか。信長や秀吉によって戦国の動乱が終焉を迎えようとしていた時期に頭角を現し、強大な敵に対してあらん限りの策謀を振り絞って挑み、そしてついに夢破れた「生まれてくるの…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…ある忠宗に本家である仙台藩を継がせた、というわけである。もちろん、秀宗が側室の子で立場が弱かった、というのもこの判断に加わっただろう。 財政問題に苦しんだ宇和島藩 宇和島藩主となった秀宗は、家康に命じられて大坂夏の陣には出撃せず、藩政に力を注いだ。しかし藩政には、財政難という大きな問題が最初から存在していた。これは、秀宗が宇和島藩を立ち上げる際に父・政宗から6万両もの借金をしていたからである。さらに幕府からは大坂城普請を命じられ、これに関する雇用、道具の調達などで、宇和島藩の…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…に野心旺盛と見られた仙台藩伊達家に対する押さえという意味合いが強かったのではないか。 そのような場所に配置されたのだから、嘉明が如何に幕府から信頼されていたかわかるが、わずか4年後にこの世を去り、息子の明成(あきなり)が跡を継いだ。 城の改築に熱中し、重臣を怒らせる 残念ながらこの明成は父と比べて凡庸な人物で、愚行が目立った。一分金(当時の金貨)の収集に執着し、「加藤一分殿」などというあだ名をつけられたのは、大大名としてはあまり感心した行為とはいえない。また、会津若松城の改築…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…目当主となった岩城隆恭は仙台藩の伊達一族の出身だが、実はこの家系こそが(間に養子を挟んではいるのだが)「本来の岩城家」当主なのである。 前述したように貞隆は本来岩城家を継ぐはずだった常隆の子を押しやる形で岩城家を継承した。追いやられた当の本人――岩城政隆は祖父・親隆が伊達家の出身(伊達政宗の叔父にあたる)だったことから親戚関係を頼って伊達家に逃れ、「伊達」姓をもらってその一族となっていた。そして、政隆の子孫こそ隆恭だったのだ。なんともはや、数奇な運命をたどった一族といえよう。

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…「利」の字は、徳川家中の有力者、土井利勝からもらったものである。 その後、義胤が居城を中村城(相馬市)に移したことから、中村藩相馬家としてその血筋が残っていく。隣国に因縁深い仙台藩伊達家があったことから無言のプレッシャーもあったようだが、伝統の行事である相馬野馬追を軍事訓練と士気向上に役立てるなど、武士としての気概を強く持ち続けた。幕末、戊辰戦争においてはその仙台藩が盟主となった奥羽越列藩同盟に加わったが、戦況の悪化から早々に離脱し、新政府軍に降伏した。 kojodan.jp

【江戸時代のお家騒動】佐竹騒動 銀札流通の失敗で藩内経済が大混乱

…府に提出する。近隣の仙台藩などでは銀札発行が行われているため久保田藩でも認めて欲しいと書き添えられており、藩側としては成算は十分にあったのだろう。 だが、幕府は簡単に認めなかった。藩札によって藩同士の商売に差し支えた例があったからだ。幕府から「銀札の交換を容易にするため、信頼性の高い札元(藩札を発行・流通する者)が必要だ」と求められた久保田藩は有力な商人や町人を札元にすると約束し、発行を認められた。この後、34名の札元を幕命通り探し出している。同年、発行に先駆けて藩札発行の目…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。幕府にうその報告をした例である。 尾張藩(尾張徳川家) 尾張国、美濃国の一部、三河国の一部、信濃国(木曽)の四令制国で名古屋城の一城。しかし、付家老である成瀬家が2代将軍秀忠より犬山城を拝領し、実質は二城であった。そのほかにもいくつも事例があるので実質は一国一城ではな…

【マンガ】伊達家ゆかりの地 大和町 御仮屋物語

…ですけど、江戸時代の仙台藩主で破綻状態だった仙台藩の財政を立て直したことから「中興の英主」と呼ばれる名君だそうです。ちなみに伊達政宗は吉村から見ると曽祖父にあたります。 この吉村の出生地が宮城県大和町(たいわちょう)で、かつては藩主が領内を見回る際の休憩施設である「御仮屋(おかりや)」があったそうです。その御仮屋跡には現在なにが建てられているのか――その答えはマンガを読めばわかります! マンガの画像をクリックすると拡大サイズで読めます www.unagi-chikutei.j…

【江戸時代のお家騒動】伊達騒動 バカ殿の押込め、守旧派 vs 革新派、幕府介入

…寛文11年)【舞台】仙台藩【藩主】伊達綱宗、伊達綱村【主要人物】伊達綱宗、伊達宗勝、伊達綱村、奥山常辰、茂庭定元、原田甲斐宗輔、伊達安芸宗重、柴田外記、古内志摩 仙台藩三代藩主・伊達綱宗の乱行と隠居騒動 “独眼竜”の名で有名な仙台藩初代藩主・伊達政宗。彼は才ある家臣に恵まれ、また自身も豊臣秀吉や徳川家康と渡り合ってきた名君である。そんな彼の時代には家臣が出奔したりしつつも、家の中で大きな騒動が起きることはなかった。その伊達家が大きく揺らいだのが政宗の孫・三代藩主綱宗の時代であ…

【戦国軍師入門】2.上への忠誠より一族の保護

…時代を代表する大藩・仙台藩はなかったかもしれない。 また、正室の長男だからいいというわけでもなく、そこにはある程度の手腕を要求された。一代で国を盗ったといわれる斎藤道三は隠居後にその子の義龍によって討たれたが、義龍が優れた手腕を示したために、それによって斎藤家の権勢が揺らぐことはなかった。しかし、その後を子の龍興が継ぐと、彼が悪政を行ったために有力な豪族は一気に離反したのだ。 他方、当主が凡庸でも補佐役がきちんとついていると勢力は揺らがない。その良い例が毛利氏だ。一代で中国地…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…ましょう。 瑞鳳殿 仙台藩の祖である伊達政宗の遺命により造営された霊廟「瑞鳳殿」は人気の観光スポットであり、伊達政宗ファンにはたまらない一番人気のスポットとなっています。杉木立に囲まれた豪華絢爛な霊廟は見る者を圧倒する雰囲気がありますし、何よりも実際にこの場所に政宗公が眠っているというのだから必見中の必見なのです。 傾奇御免 | 瑞鳳殿[仙台城] この瑞鳳殿は、昭和6年に国宝に指定されたのですが、昭和20年の戦災によって惜しくも焼失。現在の建物は昭和54年に再建されたものです…

【戦国を彩る名軍師たち】独眼龍に助言を与え続けた片倉景綱

…関係を取り、伊達氏を仙台藩として江戸時代につなぐことに成功したのだ。そして、その背景には景綱のサポートがあったとされる。 最も有名なのは小田原征伐に際しての一件であろう。秀吉が北条氏の小田原城を攻めた際、政宗のところにも出陣命令が来た。これを断ることは秀吉との敵対を意味したが、しかし出陣すれば秀吉に従うことになる。この際、景綱は強烈な勢いを持った秀吉のことを「夏の蝿」に例え、幾度かは潰せてもついにはしのぎきれなくなる、と進言した。政宗もこれを受け入れ、秀吉に付き従ったため、伊…

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