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【江戸時代のお家騒動】伊達騒動 バカ殿の押込め、守旧派 vs 革新派、幕府介入

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【時期】1660年(万治3年)~1671年(寛文11年)
【舞台】仙台藩
【藩主】伊達綱宗、伊達綱村
【主要人物】伊達綱宗、伊達宗勝、伊達綱村、奥山常辰、茂庭定元、原田甲斐宗輔、伊達安芸宗重、柴田外記、古内志摩

仙台藩三代藩主・伊達綱宗の乱行と隠居騒動

“独眼竜”の名で有名な仙台藩初代藩主・伊達政宗。彼は才ある家臣に恵まれ、また自身も豊臣秀吉や徳川家康と渡り合ってきた名君である。そんな彼の時代には家臣が出奔したりしつつも、家の中で大きな騒動が起きることはなかった。
その伊達家が大きく揺らいだのが政宗の孫・三代藩主綱宗の時代である。

綱宗は二代藩主・忠宗の六男で、本来跡を継ぐはずだった次男の光宗が早くに亡くなってしまったことから藩主就任となった。
しかし綱宗は1660年(万治3年)に21歳の若さで隠居を命じられた。酒乱気味で女遊びも激しく、夜間に出歩き家臣の忠言も耳に入れない……という風に、不行跡が目に余ったからだ。そのため伊達家の親族にあたる柳川藩主・立花忠茂や岡山藩主・池田光政、政宗の十男の伊達宗勝(兵部)らは会議の場を設け、老中の酒井忠清を通じて綱宗や伊達家の家老(仙台藩では「奉行」という役職名だった。本書ではわかりやすく家老で通していく)に注意を促してもらうことを決定している。これは綱宗が隠居を命じられる2ヶ月ほど前のことだが、この頃からすでに綱宗を隠居させようという意見も出ていたようだ。

それが実行に移されたのは、綱宗が幕府から江戸の小石川堀の工事を命じられたのがきっかけだった。「舟が通れるようにしろ」というのが命令であり、人足が総計3863人も動員されたという大工事である。
この大役を任せられながらも、綱宗は工事をなおざりにし、さらに遊郭や芝居小屋といった悪所に足を運んでいたのだ。綱宗のこのような行いに、今後の伊達家のためにもこれ以上彼を見過ごすことはできないと、忠宗の三男・田村宗良(右京)をはじめとする14名の一門や家臣らが連署を行い、忠茂と宗勝を通じて幕府に綱宗の隠居を願い出たのである。この願書は忠茂らの手で幕府に提出され、幕府もこの訴えを受け入れて綱宗の隠居を決定したのだった。

独眼竜の実子・宗勝が藩政を牛耳ることに

綱宗の隠居に伴い彼の跡を継ぐことになったのは、嫡男の亀千代だった。
この亀千代、当時はまだ2歳という幼さだった。当然藩政などできるわけがないので後見人が付けられる。その後見人というのが、綱宗の隠居騒動にも関わった伊達宗勝と田村宗良だ。2人はそれぞれ1万石から3万石に領地を増やされ、幼い藩主を支えることになった。

しかし、この後見人の1人である宗勝がのちに歌舞伎の演目にもなったほどのお家騒動を勃発させる。
後見人といっても宗良の方が若く、また宗勝と綱宗とが叔父と甥の関係であったため、権力は宗勝の方に傾いた。また宗勝は、1664年(寛文4年)に子の宗興が酒井忠清の養女を妻にしたことでさらなる権力を手にしており、実質的に仙台藩の藩主のようなものであったという。このような宗勝の強大な権威は、亀千代擁護派の家臣との対立関係を作りだすことになる。
また宗勝は、自身が政宗の実子だというプライドもあったことから、自分が藩主になってもおかしくないという考えをもっていたという。この時、宗勝派による亀千代暗殺の企みも明るみに出ており、仙台藩は真っ二つに分かれてしまうことになったのだ。

家老たちの間では宗勝たちよりも前に関係の悪化が見られた。綱宗の時代から政務の中心にあった奥山常辰(大学)と茂庭定元が対立していたのである。定元の追い落としをはかった常辰は、宗勝や宗良らに「定元とともに奉公したくない」と訴えている。
その理由として常辰は、綱宗の悪行は定元がそそのかしたからだというようなことを言っている。この主張については「常辰が酒を勧めたことが、綱宗の酒乱につながった」とする話もあるので一概に信じきることはできない。
しかし定元は綱宗が藩主だった頃、小石川堀工事の総奉行として江戸に入っていた。そのことから、宗勝と宗良も「綱宗の不行跡を止められなかったのは定元にも責任がある」と考えていたようだ。

こうして定元は辞任することとなった。辞任とはいえ、実質的には解任といっていいようなものである。
定元がいなくなったことで、常辰は家老の権力を我が物だけのものにした。しかしそんな常辰の権勢も長くは続かない。専横を極めたことで、常辰と後見人2人の関係が次第に悪化していったのだ。そして常辰の専横に対する不満の声は藩内からも上がり、里見重勝という小姓頭から後見人2人に対し、「身勝手な振る舞いが過ぎる」として常辰の家老解任が求められたのである。さらに藩の目付・里見盛勝からも、知行地の倍増や贅を尽くした暮らし、親類の引き立てといった常辰の所行の数々を記した上書が提出されている。こうして1663年(寛文3年)、常辰も辞任に追い込まれた。

宗勝派 vs 宗重派の審問が江戸にて行われる

定元と常辰が揃って仙台藩中枢から追われた時期、新たに家老入りをしたのが、のちに起きる事件の中心人物となる原田甲斐宗輔だ。伊達家の譜代の家老である原田家出身の宗輔は、宗勝と手を組んで集権化をはかった。その結果、1668年(寛文8年)ごろになると宗勝が大きく藩政を牛耳ることになっていたのである。

これに反発したのが伊達一門の伊達安芸宗重だ。宗重は以前、領地が隣同士の伊達宗倫と領地の境界の件で揉めたことがあり、この時役人がした検地に不当な点があった。これを家老の宗輔に告発したが相手にされず、宗重は激怒。そのため、このことと同時に宗勝の独裁政治について幕府に訴え出た。
宗重は宗勝と対立する亀千代派のリーダー格だったとされており、宗勝らの専横に不満を抱いていた譜代の重臣らにとって、頼みの綱でもあったのだ。

こうして伊達家内の騒動は中央政権をも巻き込む事態となった。
宗重の訴えを聞き入れた幕府が審議の場を設けたので、宗重は1671年(寛文11年)2月2日に江戸に向かうため仙台を発った。その出発前に宗重は円同寺という寺を訪れ、戒名を授かっている。どのような判決が下されるか分からないし、自分の告訴のせいで藩が取りつぶしになる可能性もないとは言えない。戒名は、その覚悟の証であったと思われる。

審問は3月7日から数回にわたって行われた。最初の審問は老中の板倉重矩邸にて開かれ、宗勝に代わって出廷した宗輔と、家老の柴田外記が呼び出されている。
ところが外記は宗重に味方していたため、2人の供述には相違が見られた。加えて審問について宗輔が明快な答えを返さなかったことから、この審問は彼にとって厳しいものとなったようだ。

宗輔と外記の供述の食い違いを確認するため、今度は家老の古内志摩が仙台より呼ばれ、3月22日に重矩の審問を受けた。ところが志摩もまた宗重の味方であり、この審問の前夜に密かに外記と志摩の間で打ち合わせが行われていたのである。そのため22日の審問でも、当然ながら流れは宗輔の不利に傾いた。証人として呼ばれた4人のうちで、ただ1人宗勝を支持する形となった宗輔は、追いつめられてしまったのだった。

大老・酒井忠清邸にて刃傷沙汰となる――「寛文事件」

そして3月27日に行われた審問で、事件は起きる。
この時の審問には大老の酒井忠清も参加するということで、当初板倉邸で開かれる予定だったのが急速酒井邸へと場所を移された。
審問は個別に行われ、宗重、外記、宗輔、志摩の順に行われていった。この時の審問も、詳しい内容までは明らかとなっていないが、これまでと同じく宗輔が苦しい立場となっていたのは間違いないだろう。事件が起きたのは、審問がひと通り終わった後のことだ。控えの間にいた宗輔が突然脇差しを抜いたかと思うと、それで宗重の首を斬りつけたのである。宗重はその場で絶命、続けて宗輔は老中たちのもとへ向かおうとした。

しかし外記がそれを追いかけて、宗輔と斬り合いになった。外記は深手を負い、宗輔も負傷する。別室にいた聞番の蜂屋六左衛門が惨事に気づいて駆けつけたものの、混乱した酒井家の家臣たちもこれに入り交じっての斬り合いとなり、結果的に宗輔だけでなく外記と六左衛門も死亡してしまった。

この事件は「寛文事件」と呼ばれ、一般的に伊達騒動といえばこの酒井家で勃発した刃傷事件のことを指す。
寛文事件はすぐに将軍・徳川家綱のもとに伝えられ、関係者にどのように処分を行うかが議論された。
まず藩主の綱基(亀千代。のち綱村)だが、彼はまだ幼少ということでお咎めなしとなった。幕府は刃傷事件を私闘として処理することで、藩主には責任を問わないことにしたのである。

綱基の2人の後見人については、責任が糾弾されることとなった。まず伊達宗勝だが、彼は専横を極め藩政を混乱させたとして、高知藩山内家お預かりの処分が下された。もう1人の後見人である田村宗良は、宗勝の好きなようにさせ後見人としての十分な役目を果たしていなかったとして、閉門を言い渡されている。
また宗勝の一派に属していた家老らにも、それぞれ処分が下された。ある者は他藩へお預けとなり、ある者は家禄を没収されている。

これらの処分の陰に、寛文事件で生き残った古内志摩の動きがあったことにも注目しておくべきだろう。志摩は事件の直後から、身を案じて仙台藩邸には戻らず、そのまま宇和島藩邸に入っている。そして宗輔の家来や縁者に対する監視を強めるよう、宗勝や宗良に求めている。その後、後見人の2人に処分が言い渡されると親族大名の立花鑑虎らと話し合い、宗勝派の家老たちに対する厳重な処罰を決定したのだった。

物語ネタとしての伊達騒動

こうして幕を閉じた一連の事件はその後、歌舞伎などの題材とされ、多くの人に知られることになった。
それらの多くは、宗重を「善」とし宗輔を「悪」とした構成になっている。奈河亀輔が歌舞伎脚本として書いた『伽羅先代萩』では、亀千代の暗殺未遂事件などにも脚色が加えられ、善と悪の図式が強調されている。この『伽羅先代萩』は1777年(安永6年)に大坂で初演。その後、浄瑠璃化されて1785年(天明5年)に江戸の結城座にて上演され、わが子を犠牲にしても幼君を守りぬくという、忠義に尽くす乳母の姿が人気を呼んだ。

また志賀直哉の『赤西蠣太』という作品は、主人公の赤西蠣太が宗勝や宗輔の悪事を暴くため、隠密として宗勝の屋敷に仕えているという設定になっている。1936年(昭和11年)に映画化され、時代劇には珍しく風刺の色が強いのが特徴で、好評を博した。
このような娯楽の影響により、宗輔は長い間、悪者として見られていた。しかし山本周五郎の『樅ノ木は残った』は、藩の権威が落ちていく中でその危機を脱しようとした宗輔の政治手腕などに着目した作品となっており、新たな視点から宗輔が見直されている。山本自身はこの作品について、「宗輔悪人説」を否定するために書いたものではなく、ただ史実に忠実に書いたまでだと述べている。

結局のところ、歌舞伎の演目に見られるような、絶対的な「善」と「悪」の図式は存在せず、それぞれがそれぞれの正義のために行動した結果が、このような事件を招いたのだといえよう。そして実のところそれは、ほとんどのお家騒動にも共通する構図なのである。

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