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【江戸時代のお家騒動】近思録崩れ 隠居した父が息子の藩主を押込め。薩摩藩最大の大獄

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【時期】1808年(文化5年)
【舞台】薩摩藩
【藩主】島津重豪、島津斉宣
【主要人物】島津重豪、島津斉宣、樺山主税、秩父太郎

藩主・重豪は藩財政立て直しより開化政策に注力

近思録崩れ、または秩父崩れとも呼ばれるこのお家騒動は、処分者が総勢100名以上にものぼる、薩摩藩史上最大の大獄である。
島津家の25代目当主・島津重豪(しげひで)は、父の死によって1755年(宝暦5年)に藩主になって以降、1787年(天明7年)までの32年もの間、藩主を務めた人物だ。重豪が藩主となったのは、薩摩藩が財政面の危機に瀕している頃だった。

薩摩藩はもともと火山灰に覆われた土壌のせいで米が育ちにくく、海外との貿易によって収入を得ていた。しかし幕府が鎖国令を敷くと、海外との貿易に制限が設けられたために財政は逼迫していったのである。
さらに1753年(宝暦3年)には幕府から木曾川治水の工事を命じられ、これに40万両もの大金が必要だった。すでに50万両以上の赤字を背負っていた薩摩藩には、余りにも重い財政負担だ。

藩がこのような状況に陥っている時に、重豪は藩主に就任したのである。ところが重豪は藩財政の立て直しよりも、薩摩藩の文化水準を引き上げることに力を注いだのだ。
具体的には、書物の編纂や藩校の建設などがそれにあたる。重豪は蘭学や薬物学などに興味を持ち、『質問本草』『鳥名便覧』『成形図説』など多数の書籍を編纂し、薩摩藩の正史を記した『島津国史』も残している。
また藩校や医学院などを創設し、そこで文化人の育成を試みたのだった。そのほか、薬園の新設や整備を行ったり、天体観測所を設けて独自の暦を作ったりと、重豪の開化政策は多彩だった。

しかし、当然ながらそれだけの政策を実施するには費用が必要になってくる。その上、度重なる江戸藩邸の火災や桜島の噴火などで、薩摩藩の経済状況は悪化する一方であった。

重豪の娘が将軍・家斉に嫁いだことが隠居の原因

重豪が隠居するきっかけとなったのは、娘の茂姫が11代将軍・徳川家斉のもとへ嫁いだことだった。
家斉は徳川御三卿の一橋徳川家出身であり、当初は将軍になる予定のない人物だった。そのため家斉と茂姫の婚約は、島津家と一橋徳川家という2つの大名家を結ぶ縁組みになるはずだったのだが、1781年(天明元年)に家斉が当時の将軍・家治の養子となったことから状況は一変する。

本来ならば、将軍の正室となるのは官家や五摂家出身の娘である。島津家のような外様大名から正室を迎えるなど、例外中の例外だった。
しかし、1729年(享保14年)に島津家に嫁いできた竹姫という女性の遺言が、ここで大きく響いた。竹姫は五代将軍・綱吉の養女であり、彼女が嫁いできたことがきっかけで島津家と徳川家の間に結びつきができたという過去がある。

その竹姫は1772年(安永元年)に病で亡くなってしまうのだが、その遺言の中に「重豪に女子が生まれたなら、徳川家に嫁がせなさい」というものがあった。竹姫は、自分の死後に島津家と徳川家の結びつきが弱まることを案じて、このような言葉を遺したのである。
竹姫が島津家と徳川家をつないだ存在であったこと、そして何より将軍である家治が彼女の遺言を無視してはならないと言ったため、家斉と茂姫の婚約は破棄されないことになった。しかしやはり前例にないことを認めるわけにはいかないということで、茂姫は一旦五摂家のひとつである近衛家に養子入りした上で、家斉のもとへ嫁いだのだった。

だが、重豪が茂姫の実父という事実は変わらない。
それはつまり将軍の舅が外様大名ということになり、幕府はそれはまずいという判断を下した。そのため、幕府の指示に従って重豪は息子の斉宣(なりのぶ)に藩主の座を譲り、隠居することになったのだ。

隠居・重豪が藩主派と対立、孫を新藩主に擁立!

しかし隠居が重豪自身の意思ではなかったために、その後も彼は斉宣の補佐という形で藩政に関わり続けた。
そしてその間にも、財政は逼迫していった。重豪は茂姫だけでなく、他の子らも大名家に嫁がせたり、あるいは婿養子に出したりして、権勢を強めようとしたのである。そうなれば当然、交際費がかさんでいった。

当初は斉宣も重豪に従っていたものの、厳しくなる一方の財政に、ついに藩政改革を決意。
近思録派と呼ばれる樺山主税や秩父太郎らを家老に取り立て、改革を進めようとした。『近思録』というのは中国の古典で、これを重んじていた樺山や秩父らは、造士館という藩校で講じていた学者・山本正誼らの学風と対立していたのだ。斉宣に取り立てられた近思録派と、重豪に重んじられていた山本。このような学派の対立も、騒動のきっかけとなった。

斉宣が進めた改革は、これまで重豪が行ってきた開化政策を否定するものだった。造士館の改革や人員の整理、さらに幕府に対する借金の依頼などを推し進めようとしたのである。
しかしこれを知った重豪が激怒。樺山や秩父らをはじめとした政策の提唱者の処罰に乗り出した上、まだ37歳の斉宣を隠居に追い込んだのだ。この処罰により、近思録派は13名が切腹、25名が遠島、さらに寺入りやお役御免となった者が65名にものぼる大事件となってしまった。

その後、隠居となった斉宣の跡を継ぎ、嫡男の斉興(なりおき)が19歳で藩主となっている。
重豪は彼の後見人として再び藩政に関わるようになったが、先の事件でようやく藩財政の危機を意識したのか、その後は自ら改革を行っている。
そして重豪が1833年(天保4年)に89歳で没した後も斉興が改革を引き継いだ結果、ようやく負債を清算し終え、薩摩藩は富強の藩として目覚ましい発展を遂げていくのである。

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