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【10大戦国大名の実力】伊達家⑤――地方勢力の栄光と悲哀

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戦うための藩作り

さらに、江戸幕府が有力諸大名から徹底的に財力や戦力を削り取ろうとした江戸時代にも、政宗は領国の要塞化による「起きるかもしれない新たな乱世」への対応を怠らなかったという。
たとえば、この時代は幕府によって「一国一城令」が敷かれ、戦争拠点として複数の城をもつことができなかった。ところが政宗は諸大名が幕府による取り潰しと財力浪費政策を恐れる中、領内の各地に要害とよばれる「実質的な城」を建てた。そのうえでそこに重臣を配置して「領内大名」であるかのようにし、防衛ラインを構築。いわば「ミニ幕府」とでもいうべき体制をつくりあげて、新たな戦乱に備えていたようなのである。

ちなみに、仙台藩には政宗の居城である仙台城とは別に、片倉小十郎の白石城という城があった。これは規模的には要害とあまり変わらず、「城」扱いをされたのは、片倉小十郎が豊臣秀吉に大名に取りたてられそうになった(実際は拒否)ことからきているのだという。
残念ながらこれらの行動が天下取りに結びつくことはなかったが、独眼竜の日は最後まで天下を睨んでいたようだ。
政宗の死後、伊達家は陸奥国仙台藩六十万石(実高は百万石とも百五十万石ともいわれる)として幕末まで存続。また、政宗の長子・秀宗が伊予に所領を与えられ、宇和島藩十万石としても存続していった。宇和島藩八代目の伊達宗城は幕末期に積極的な藩政改革を成功させた人物で、「幕末の四賢侯」としてその名を残している。

このように東北で影響力を誇った名家、というと中央風の文化には縁がないような印象を受けるが、実は全くの間違いである。
ここまでに名を挙げた代々の伊達家当主の多くが、風流の面でも逸話を残している。大膳大夫政宗は詩歌を愛した風流人であったといい、稙宗もまた歌を好んで中央の文化人たちと交わった。晴宗は連歌や蹴鞠を趣味とし、輝宗は父と同じ連歌に加えて能楽を学んだという。

そして政宗はといえば、歌を詠めばこの時代の文化の第一人者である公家たちに賞賛され、能楽や香道、華道などにも興味を示した。特に茶道に対しては並々ならぬ熱意があったようで、自身の運命をかけた小田原攻めの陣への参加の際にも茶道の名人・千利休に茶道を教わることを望んだ、というから相当のものである。
また、政宗は世が平和になった後は美食に凝り、時に自らも料理して客に振る舞ったという。このあたりにも「パフォーマー政宗」の片鱗を見ることができる。

地方の有力大名の悲劇

このように伊達家の歴史を振り返ってみると、彼らの活躍は政宗をのぞいてそのほとんどが奥州・出羽という東北地方に限定されていることがわかる。
これは彼らが地方の田舎者で中央への興味がなかったというわけではない。もしそうなら文化への興味などもないはずだ。むしろ、中央への強い執着があるからこそ、政治的には中央に進出することが難しいので、せめて中央の文化と風流を学ぼうとした、と見る方が自然ではないだろうか。

となると、動乱の時代にあっても鎌倉以来の名家がひしめく奥羽を制圧するのが難しく、中央への野心をあらわにする機会がなかったのだ、と考えるべきだろう。稙宗・晴宗・輝宗はそれぞれ優秀な戦国大名だったが、父子の相克や家臣の反発に苦しめられていたのはすでに紹介したとおりである。それを成功しかけたのが政宗だが、彼もまた遅すぎたのだ。

伊達家の悲運は東北という中央からあまりにも離れた地にいた事に端を発している。しかしそれは中央の動乱に巻き込まれることなく、勢力を拡大できた幸福と表裏一体だ。その意味で、伊達家は地方の名門企業の栄光と悲哀を体現している。
戦国時代の末期に政宗という英才に恵まれ、天下の夢を見ることはできたものの、中央の市場に食い込んで勢力を拡大するには、やはり時間が足らなかったのだ。

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