攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

佐竹家 の検索結果:

【家康の謎】家康は源氏なのか

…認められていたことなどから、源氏であった方がやはり都合は良かったのだろう。そのために家康はわざわざ足利一族で源氏の名門にあたる吉良(きら)氏から源義家の子・足利義国(あしかが よしくに)に始まる系図を手に入れまでしているのだ。 ちなみに、徳川将軍家とはまた別に「我もまた得川義季の子孫である」として、江戸時代に徳川を名乗っていた家系があるのをご存知だろうか。これが秋田藩・佐竹家の家臣である常陸徳川家であった。将軍家に遠慮などしそうなものだが、陪臣だからむしろ許されたのだろうか。

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…して存在感を発揮した佐竹家であったが、秀吉死後に勃発した関ヶ原の戦いにおいては難しい立場にあった。佐竹家は以前から石田三成と親しく、心情的には西軍側であったろう。先述したように豊臣政権の支配下に入る以前から接触があり、常陸の平定にあたっても彼の協力を得たこと。加えて、宇都宮氏が養子問題で改易になった際、縁戚関係にある佐竹家もその余波を受けそうになったが、三成の仲介によってこれを免れる、ということもあった。 1599年(慶長4年)、三成が対立する武断派七将による襲撃を受けそうに…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

戦国大名・佐竹家として ところが、佐竹氏の内紛はこれで終わらなかった。義舜の嫡男・義篤と、弟の義元が後継者争いを起こしたのだ。よくよく内紛が好きな一族だと思うかもしれないが、はっきりいえば戦国時代の名門武家においてこれがごく当たり前の光景だったのである。 名門であればこそ、代々仕えた家臣がおり、また関係の深い中小の国人がいる。彼らの思惑と、「自分で一族をまとめたい」という本家の人々の思いが化学反応を起こし、それが武力衝突という形をとる。しかし、そうした内乱の末に、ある程度強力…

【10大戦国大名の実力】佐竹家①――動乱の中でいかに立ち回るか

…けた一族 戦国大名・佐竹家、といっても「誰それ?」と思う読者も多いかもしれない。本コラムで言及している他の九家がそれぞれに誰もが知っているような有名人を輩出し、歴史的なイベントで目立つ活躍をした経歴を持つのに対し、佐竹家には少々地味なイメージがあると思う(佐竹ファン及び地元の方々、お許しください)。 にもかかわらず、ここで佐竹家について紹介するのは、まず佐竹家が清和源氏の名門であり、室町時代から戦国時代にかけて関東で最も正嫡な血を継いでいた一族であること。そしてあまり知られて…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…ってしまった。正純は佐竹家の支援を受けつつ、幽閉されたままでこの世を去った。だが、正信・正純親子の貢献に対する評価があったのか、本多家という名門を絶やさないためか、あるいはそもそもこれが陰謀によるものであったためか、正純の孫にあたる正之は旗本に取り立てられて、その血筋が幕末まで続いている。 また、正信の弟・正重によって継承された分家は、一時期、寄合旗本(ふつう無役で3千石以上。名門とされる)に落ちていたことがあるが、やがて大名に復帰し、明治維新まで存続した。正純の弟・政重は宇…

【殿様の左遷栄転物語】本領にこだわり続けた執念 相馬利胤

…代においてはたびたび佐竹家らと手を組んで伊達家と戦った。やがて豊臣秀吉が進出してくるとこれに恭順し、無事本領を安堵されている。 関ヶ原の戦いにおいてはそもそも佐竹家らと同じく「三成派」という見方をされており、かといって直接的に東軍・西軍のどちらかに積極的に味方をすることもなかった。これは佐竹家と歩調を同じくするという向きもあったろうし、積極的に攻撃するような手頃な対象が近隣にそもそもいなかった(上杉領に対する小規模な攻撃などは行っているが、これも自前の戦力ではなく夜盗をそその…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…戦国時代には常陸国の佐竹家と結んで仙台地方の伊達家と激しく争ったが、時の当主・常隆は豊臣秀吉の北条攻めに参加した帰途、病に倒れてしまう。この機に乗じた佐竹義重(鬼の勇名で知られる戦国大名)は、常隆に実子がいるにもかかわらず自身の3男・貞隆を養子として押し込み、実質的に岩城家12万石を乗っ取ることに成功する。ここから「岩城貞隆の物語」が始まるわけだ。 貞隆の運命が大きく動いたのは、やはり関ヶ原の戦いの時のことである。といっても、岩城家は西軍に味方したわけではなかった――だからと…

3.戦国大名から外様大名へ

…大名、ただし藤堂家・佐竹家などは対象にならない)や、「松平」の称号を与えられる家(松平一族や徳川一族、徳川一族との血縁がある家、そして外様大名が特別な名誉として与えられる)などもあり、これも「格」を構成する大きな要素となった。これらは別に徳川家が始めたことではなく、以前からあった習慣の一種であることを付記しておく。 さらに「移動に用いる乗輿の種類」とか「行列で乗る馬に虎革の覆いがかけられる」とか「表門に家紋を付けてよい」など、様々な形で大名たちには「格」の差があり、その一つ一…

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