攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

加藤嘉明 の検索結果:

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…福島正則、黒田長政、加藤嘉明は江戸に留置 1611年(慶長16年)に加藤清正死去、1613年(慶長18年)に浅野幸長死去と仲裁してくれる有力大名がいなくなっていた 大坂城には牢人が集まり籠城軍は10万に 11月、20万人の徳川方が大坂城を包囲、大坂冬の陣 大坂冬の陣で和睦する? 和睦後も大坂からの退去(大和・伊勢が提案)、浪人の召し放ちを迫る @外堀?総堀? 大坂方も納得していたと思われる 1615年(元和元年)、74歳 5月、大坂夏の陣 5/8、秀頼・淀殿が自害して豊臣家滅…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…福島正則、生駒正俊、加藤嘉明、蜂須賀至鎮、浅野幸長ら豊臣恩顧の西国大名20家が担当しています。西国大名に担当させた意図としては諸大名の財力をそぐためとか、豊臣政権を見限らせるためなどと考えられていますが、石垣築造は主に西国で行われていたために技術力が高く、逆に徳川をはじめとする東の大名は技術力に乏しかったことも要因のひとつです。本丸の北西隅には巨大な天守が建てられました。天守一階は15間×17間もあり、16間×18間と言われた江戸城天守に次いで第2位の巨大天守でした。一階から…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料によっては蜂須賀家政)、浅野幸長ら七将が三成の大坂屋敷を襲撃したのだ。そこで三成は奇策に出る。なんと、最大の政敵である家康の屋敷に逃げ込んで庇護を求めたのだ。豊臣政権を弱らせることを考えていた家康にとって、今はまだ武断派と文治派に対立してもらわないと具合が悪かった。そこで家康は彼を匿って七将を思いとどまらせた。 この策を考えたのが、実は三成ではなく勝猛だったという説がある。大義名分や建前を重視する、良い意味ではキッチリとした、悪い意味では融通…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…賀阿波守 阿波徳島 加藤嘉明 加藤左馬助 伊予松山 加藤清正 (記載なし) 肥後熊本 なぜ靖国神社にあるの? そしてなぜ靖国神社に名古屋城の資料が伝わっているのか疑問に思っていたのですが、ちゃんと説明がありました。廃城令後、多くのお城が陸軍の駐屯地になったことはご存知の方も多いと思います。とくに平城は広大な敷地を利用できることから、広島城や駿府城などが陸軍に使用されたのは有名ですね。そしてこの名古屋城にも陸軍第三師団の司令部が置かれていました。 狩野派の障壁画が飾られた立派な…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…七本槍にも数えられた加藤嘉明(かとう よしあきら)を祖とするのが、会津藩加藤家である。もとは松平(徳川)家に仕えていたものの、嘉明の父・教明が三河一向一揆に加担して徳川家康に反旗を翻したため、国を離れることになった。その後は将軍である足利義昭、そして秀吉へと主君を替えた。しかし秀吉の死後、徳川家康に急接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦っている。 1627年(寛永4年)、陸奥国会津藩の藩主・蒲生忠郷が子のないままに死去したため、代わって嘉明が40万石を与えられ、会津に入ること…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…がいなかったため、伊予松山城主の加藤嘉明が新たに会津に入ることとなり、会津蒲生家は3代で断絶となったのである。 それでも幕府は、伊予松山に忠郷の弟・忠知を封じるなどの処置を行った。しかし忠知もやはり短命で、嗣子のないまま30歳で亡くなってしまったため、蒲生家は改易となってしまつた。 氏郷の死後、お家騒動がひっきりなしに続いてしまった蒲生家。その原因は藩主が若くして亡くなり、まだ統率力のない幼子が跡を継がなければならなかった、という事態が繰り返されてしまったことが大きいだろう。

初代藩主と藩祖のちがい

…したため改易となり、加藤嘉明が会津藩主となります。その加藤家も嘉明の子の明成の代で改易となり、そうして1643年(寛永20年)に入封するのが保科正之です。以後、保科家(=会津松平家)がご存知の通り幕末まで会津藩主をつとめるのですが、歴代藩主で数えると5代目(蒲生秀行―忠郷―加藤嘉明―明成―保科正之)にあたる正之がどうして藩祖として扱われているのかがわかりません。 蒲生家、加藤家が改易されたから?(繰り上げとかあるのか?) 保科正之が将軍・徳川秀忠の子だから特別扱い? 会津藩の…

3.戦国大名から外様大名へ

…本槍」にも数えられた加藤嘉明の会津藩・加藤家は「叩き上げ大名の息子のボンクラ具合」が目立つ。嘉明の息子の明成は、地震で天守閣が傾いていた鶴ヶ城の大改築を行って幕府に危険視されたり、内政に失敗したりと暗愚な人物であったようだ。挙旬、重臣の堀主水と対立して幕府まで巻き込む大騒動を起こし、主水は処刑したもののこの事件の際の言質を取られる形で所領を没収されてしまった(その後、子孫は小大名として幕末まで残る)。 改易は幕府の権力を強化する最も手っ取り早い方法であったが、このような強権発…

マンガでわかる塙団右衛門

…自信作でもあります。 是非とも、たくさんの人に読んでもらいたいので、今回もまた、攻城団さんの場所をお借りして、公開することにしました。 これを描いていた頃は、大坂の陣で活躍した人物を豊臣方、徳川方問わずにピックアップして、列伝にしてみたかったのですが、色々あって残念ながら果たせず、今に至っています。 それと、作中ちょっとモアレが出ていますが、どうかご寛容のほど、お願いします...。 下のリンクにある「マンガでわかる松山城」では加藤嘉明も活躍してますので、是非読んでみて下さい!

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…加藤清正、福島正則、加藤嘉明、片桐且元、脇坂安治、糟屋武則。そしてもう一人。」 信繁「名前が出てきません」 三成「それがヤツだ」 のやり取りは、歴史好きにはたまらないんじゃないでしょうか。ちなみに長泰は第二次上田合戦に参加してるので、敵味方として登場するかもしれません。 解説画像は1586年(天正14年)当時の勢力図です。 #真田丸 1586年当時の勢力図。上杉、徳川が臣従し、秀吉に敵対する勢力はもはや九州の島津と関東の北条(と東北の各大名)だけです。真田家はすでに信繁を人質…

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