攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

土岐家 の検索結果:

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…っさいには侍所所司は土岐家などもつとめているので数字は正確ではないです。 いきなり脱線しますが「3代将軍・足利義満が三管領家や四職を定めた」というエピソードは江戸時代初期に書かれた「南方紀伝(なんぽうきでん)」が出典なので真偽不明とのこと。 最初の管領は誰か、というのはけっこうややこしくて、文献上は義満の時代に細川頼之が管領をつとめた記録が残っているのが最初らしいです。ただ実態としてはその前の斯波義将(よしゆき)の頃から「足利家の執事」から「室町幕府の管領」に移行していったと…

【殿様の左遷栄転物語】藩主の乱心で改易 津山藩森家

…美濃国に入って守護の土岐家に仕え、森可成の代に信長の家臣となる。長男の長可(次男とも)は「鬼武蔵」と呼ばれるほどの武勇の将であり、その弟の蘭丸は信長のそば近くに仕えた、というわけだ。 しかし蘭丸は信長とともに死に、長可は羽柴秀吉についたものの討ち死にしたので、森家を継いだのは末弟の忠政だった。豊臣政権では美濃国金山に7万石を与えられ、関ヶ原の戦いでは東軍に従った功績で美作一国である18万6千石余を与えられた。津山藩の始まりである。 森忠政にはふたりの息子がいたが、ふたりとも早…

明智光秀とお岸ーーあるいは史料と伝説の向こうの家族

…次は父ともども逃げ延び、のちに羽柴秀吉に仕えている。 この他、側室の子・於隺丸がいて生き延び、近年多数の著作を刊行する明智憲三郎の先祖になったとか、タレントのクリス・ペプラーの母方の家系である土岐家を遡ると土岐頼勝という人物がいて、この人は光秀の実子であると言われているとか、そのような噂、伝説は数多くある。なんと、あの坂本龍馬も、じつは光秀の子孫だった……という話があるのをご存知だろうか。しかしそれらは基本的に史料的な裏付けに乏しく、後世の創作以上のものではないと考えられる。

2.譜代家臣団の成立

…家、岡部家、朽木家、土岐家、稲垣家、丹羽家、三浦家、遠山家、加々爪家、内田家、小堀家、西郷家、奥田家、脇坂家、京極家、毛利家、山口家、柳生家、堀家、蜂須賀家、増山家などが含まれる。 これらとは別に松平家の一門がある。実は譜代大名として数えられる松平一族も少なからず存在したのだ。 松平一門 徳川を名乗ることができたのは、基本的に御三家と御三卿だけで、それ以外の一門――および元々松平を名乗っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳川直系の保科家や越智家、…

1.戦国大名の誕生

…濃へ入って美濃守護・土岐家で頭角を現し(有名な「油売り商人から一代で身を立てた」説は現在ほぼ否定されている)、ついに美濃守護代・斎藤家を継承するとともに土岐家を滅ぼし、美濃一国を手に入れてしまった。しかし、やがて息子の義龍との関係が悪化、家督を譲ってもその関係は修復せず、内乱の末に息子によって倒されてしまう。 道三の下克上においても、また息子・義龍の父殺しにおいても、美濃国内の国人たちが大きな役割を果たしている。彼らは代々仕えてきた主家を見限って道三につき、さらにその道三も裏…

明智光秀と稲葉一鉄――あるいは光秀謀反の引き金を引いた男?

…ぐことになった。まず土岐家に、ついで斎藤家に仕えた。独立性は少なからず持っていたものと思われ、織田信長が美濃を攻めるにあたって三人衆のほか2人とともに斎藤家を裏切って織田方についた。以後、一鉄は織田家の有力武将のひとりとして近江での戦いをはじめ数々の戦場に出ている。彼ともう2人(氏家・安藤)は名前こそ「三人衆」として一括扱いではあるものの、他の織田家重臣たちと並んで重要書類にも登場し、とくに一鉄は三人衆から離れて単独でも信長の命令で軍事行動を起こしていることから、十分に信用さ…

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