天明の大火 の検索結果:
…(天明8年)に起きた天明の大火で焼失して、その後再建されました(ほかには応仁の乱や天文法華の乱で焼失した寺院も京都市内には多いですね)。 唯一、建立時から残っているのが本堂に安置された達磨大師の像で、これは藤堂高虎によって寄進されたものだそうです。高虎と織部の関係ってなにかありましたっけ?また天井に描かれた「雲龍図」も立派でした。※建物内はほぼ撮影不可 撮影可だったのが方丈内の障壁画で、この珍しいデザインの襖絵は写真だそうです。(海中写真家・杏橋幹彦さんの作品) 天井の絵は檀…
…。 二条城が焼けた「天明の大火」では亀山藩の火消し隊は大活躍しましたが、たしかに有事の際に駆けつけられる距離だなと実感しました。 kojodan.jp あと昨日はおなかの調子が悪かったのですが、完成直後の大河ドラマ館(京都スタジアム)はもちろん、みろく会館も以前からきれいなトイレですし、文化資料館にいたってはおそらく今年の大河ドラマ放送にあわせてトイレをリフォームしてました。トイレで困ることはないと思うので、ぼくのようにおなかの弱い方も安心してお越しください。 大河ドラマ館も…
…天守は雷で消失し、「天明の大火」で本丸御殿や北側の隅櫓なども焼失しており、建物としては二の丸御殿が残っていたものの、相当傷んでいたようです。家茂が上洛するのにあわせて急遽、修復・整備をしたのですが、その当時の二条城についての数少ない記録が池坊に残っています。 これは黒書院に有力な町衆たちが招待された日の記録のようですが、黒書院の東側にある「牡丹の間」に居並ぶ最前列に「池坊」の名前があります。家茂に謁見するという名誉な機会だったので記録に残したんでしょうね。 そして時代は進み、…
…大火(1708年)や天明の大火(1788年)、蛤御門の変(1864年)など大火に見舞われるたびに被害を受けましたが、町衆の力により今日まで継続されてきました。 山鉾紹介(一部だけ) 蟷螂山(とうろうやま) 全山鉾の中で唯一のからくり仕掛けで、ぼくはここのちまきを毎年買ってます。(今年は間に合わなくて買えなかった) おみくじもからくり仕掛けになってます。 四条傘鉾(しじょうかさほこ) 織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりばやしが巡行します。地元小学生16名が披露する「子供棒振り踊り…
…建てられた本丸御殿は天明の大火で焼けたので、現在の本丸御殿は明治時代に移築された宮家の住宅(桂宮家) 二の丸御殿の建物自体は家康時代のものだが、寛永期の大改修で間取りなどは大きく変更され、障壁画もすべて描き換えられた 現在、1016面が重要文化財に指定されている 天井画は美術工芸品ではなく「国宝建造物の一部」として扱われている 障壁画、天井画などぜんぶで3608面が現存している(江戸時代〜明治時代) 寛永行幸について 洛中洛外図屏風にも多数描かれている 行幸時の東大手門は現在…
…。 ちなみにここも「天明の大火」で伽藍の大半を焼失しています。現在の建物はこのときに再建されたものがほとんどだそうです。この大本堂は中を見学することもできます(撮影不可)。 訪問したのは2日だったので桜はまだ咲きはじめでした。(そのあと6日に再訪したらほぼ満開になってました) 立派な玄関です。 方丈が拝観受付になっていますが、とても大きいです。 坪庭があったり、水琴窟を体験できたり、インスタ映えしそうな丸窓があったり(覗いた景色はさほど映えないのが難点)、大きなお寺なので見ど…
…京都では江戸時代に「天明の大火」が起きて市内の大半が焼けることになりますが(二条城の本丸御殿もこの大火で焼失)、この絵は土蔵で保管されていたので焼失をまぬがれました。 しかし、再建した本法寺はこの巨大な絵を展示できるような大きな建物を用意することができず、そこから約200年、日の目を見ることがなかったそうです。現在このように毎年、春になれば開帳されるというのはじつに恵まれているわけですね。 御朱印をいただいた 御朱印をいただいたら、智積院のとなりでした。いずれも等伯にゆかりの…
…88年(天明8年)、天明の大火で御所も焼失 そうなると疑問が残ります。 仙洞御所の釣殿は二条城の行幸御殿を移築したものの一部なのか、それとも新築なのか 能舞台として使われたのはいつなのか(寛永行幸字? それとも下賜されたあと?) 釣殿と御霊屋はサイズ的には近いし、天皇から下賜された建物を改築するとかはないと思うので、おそらくは 寛永行幸にあわせて二条城内に建てられた能舞台↓仙洞御所の造営時に釣殿として移築(このとき大幅に改築)↓(後水尾天皇から下賜される)↓二条城に移築↓(春…
…8年(天明8年)の「天明の大火」の被害もまぬがれてこうして残っているのは二条城二の丸御殿と並んで京都の奇跡のひとつですね。 公式ガイドブックより この「竹虎図」に描かれているのは、左にいる3頭のうち真ん中の大きいのが山楽で、その左にいるのが山雪、右の子虎は山雪の息子の永と、京狩野の三代を描いたとされてます。右にいる豹は山楽の奥さんか、山雪の奥さん(山楽の娘)ではないかと。「豹が必ずしも虎のメスとして描かれているわけじゃない」というのは二条城で聞いた話ですが、この絵についてはメ…
…88年(天明8年)「天明の大火」で焼失 二の丸御殿は将軍家光のための御殿→現存 行幸御殿は後水尾天皇のための御殿→御所へ移築後焼失 狩野派の絵師たちが障壁画を描く 二の丸御殿大広間 一の間は将軍が座る 二の間は対面の相手が座る 三の間の用途は不明 おそらく二の間で対面する前にここで控えた 寛永行幸の際は秀忠と家光がここから能を鑑賞した(天皇は二の間から) 江戸幕府における武士の階級 将軍……1人 大名……約200〜300人 旗本……約5000人 御家人…約17000人 将軍と…