攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

山県昌景 の検索結果:

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

… 上杉謙信のケース 山県昌景のケース 惟任光秀のケース 一色義龍のケース 姉小路良頼のケース 北条早雲のケース 津軽為信のケース 松前慶広のケース 徳川家康のケース もちろんこれはほんの一例で、たとえば毛利元就は毛利家を継ぐ前は多治比元就を名乗っていたし、真田昌幸も武藤氏の養子となって武藤喜兵衛を名乗っていました。毛利元就や真田昌幸はいろいろあって実家を継ぐために名字を戻していますが、それ以外にもいろんな理由で名字を変えることがありました。 詳しくは動画を見ていただきたいので…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…・設楽原の戦いでは、山県昌景(やまがた まさかげ)や馬場美濃守信春など信玄時代からの重臣を多く失う結果となりました。 長篠・設楽原の戦いに勝利した家康は、遠江を勝頼から取り返すべく攻勢に転じました。1575年(天正3年)7月、ついに諏訪原城攻めを開始します。駿河・遠江の国境に位置し、武田氏の兵士・物資補給ルートにおいて重要な位置を占めていた諏訪原城攻略が成功すれば、武田氏の遠江支配に楔を打ち込めると家康は考えたのです。徳川軍は、のちに徳川四天王として名を轟かせる本多忠勝、榊原…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…記」によると一番手・山県昌景(やまがたまさかげ)、二番手・武田信康(たけだのぶやす、信玄の弟)、三番手・小幡勢の赤の具足をまとった騎馬隊、四番手・武田信豊(たけだのぶとよ、信玄の甥)、五番手・馬場信春(ばばのぶはる)が波状攻撃を仕掛けてきましたが、鉄砲と足軽隊によって応戦し、馬防柵より一隊も出撃させずに応戦したとあります。明け方から未の刻(午後2時ごろ)まで鉄砲隊を入れ替わり立ち替わりさせて戦い、武田方は多くの兵が討たれて次第に兵力が少なくなり、諸勢は本陣へと逃げ戻っていきま…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…房(ばばのぶふさ)、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)が討死しているし、他にも名のある武将が数多くこの戦いで死んでいる。真田昌幸の兄二人もこの時に死亡した。勝頼は人事の再編に奔走しなければならなかった。また、三河から追い出され、東美濃の岩村城を取り返され、遠江でも押し込まれ、と織田・徳川連合軍との戦いが厳しかったのも事実である。・しかし、勝頼は内政・外交の再編に奔走し、関東の北条氏(信玄時代の後期に同盟が復活していた)に加えて越後の上杉氏とも同盟を結ん…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…時期武田信玄の臣下・山県昌景(やまがた まさかげ)の配下にあって徳川家康と戦っている、というのだ。これは「関ヶ原の戦い」の前夜に彼が語ったという形で伝えられている話なのだが、真偽はさだかではない。 順慶が死んで甥の定次(さだつぐ)に代替わりすると、彼と反りが合わなかった勝猛は数年後に筒井家を出奔。その後の彼の消息については、伊賀(現在の三重県西部)の上野に転封された筒井家に代わって大和の大名となった秀吉の弟・秀長に仕えたとも、また近江の高宮郷という場所に隠棲していたともいい、…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…江へ抜ける道を進んだ山県昌景の一隊が井伊谷を通過している。この際、井伊谷三人衆や井伊氏は家康のいる浜松城(浜松市中区)へ避難したという。その後も、武田・徳川の小競り合いのなかで井伊谷はたびたび武田の攻撃に晒され、これは1582年(天正10年)に武田氏が滅亡するまで続いたようだ。家康の本拠である浜松城に近いゆえの受難であったろうか。 直政の放浪と再興の兆し さて、故郷の井伊谷が叔母・直虎の手で統治されている間、父・直親を殺されたあの虎松はどうしていたのか。今川氏の追手から隠れ、…

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