攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

島左近 の検索結果:

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…りだ。最も有名な名は島左近(しま さこん)だが、他にも清興(きよおき)・友之・昌仲など。出身地も諸説ある。 彼は最初、大和(現在の奈良県)の国の戦国大名・筒井家の家臣だった。まず筒井順昭(つつい じゅんしょう)に仕え、彼が早死にすると同僚の松倉勝重(まつくら かつしげ)とともに順昭の子・順慶(じゅんけい)を養育する役目を務める。ここから島は左近・松倉は右近という通称で並び称せられるようになった。 勝猛(かつたけ)は順慶によく仕えた。そんな彼の働きを伝える話がある。信長軍団の中…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…興(しま きよおき=島左近の名で知られる)が前吟戦を提案する。敵が陣取った場所の付近を流れる杭瀬川に兵を出し、敵を誘い出そうというのだ。この策は見事にあたって、誘い出された東軍の一部は散々に打ち破られた。 この夜、島津義弘(しまづ よしひろ)らがさらなる夜襲を提案し、ここで一気に東軍を打ち破ろうとしたものの、三成はこれを認めなかった、という逸話が伝わっている。義や理を大事にする三成が夜襲という戦法を認めなかった、という彼らしいエピソードだ。ただ、この話は正確な資料の形で残って…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…(五)片倉景綱(六)島左近(七)直江兼続(八)鍋島直茂大名のブレーンといえば僧侶(九)太原雪斎天下人にナンバー2はいたか(十)明智光秀(十一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三…

【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

…その領地のほとんどを島左近をはじめとする武将に与えたのも、戦地においては自らが信用されないということがわかっていたからだろう。だからこそ、優秀な武将を高禄で迎え入れたのだ。 石田三成がこうして出世できたのは、既に戦乱が収まりかけていた時代の人間だったからだ。実際、彼は秀吉に逆らう諸大名がいなくなったあとに、その参謀的存在として大きな力を振るうようになった。しかし、戦乱真っ只中の頃は、三成のように文官として優秀だった人物がその能力を生かせず、歴史の中に埋もれていくこともさぞ多か…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…印 書置き(印刷) 島左近しまさこん 島左近 教法院(京都府京都市上京区) 神社・寺院 不明 御朱印 直書き、書置き(直書き) 豊臣秀次とよとみひでつぐ 豊臣秀次 瑞泉寺(京都府京都市中京区) 神社・寺院 不明 御朱印 書置き(直書き) 縦17.3cm、横11.3cm 大石良雄おおいしよしお 大石良雄 大石神社(京都府京都市山科区) 神社・寺院 不明 御朱印 赤穂義士あかほぎし 赤穂義士 法住寺(京都府京都市東山区) 神社・寺院 不明 御朱印 真田幸村さなだゆきむら 真田幸村…

『柳生非情剣』『柳生刺客状』ーー柳生を通して描いた時代

…ころのある次郎三郎や島左近、六郎といった人々よりも、人間味が丸出しでかつ作中で成長していく秀忠・宗矩の主従コンビの方が好き、という人だって結構いるぐらいだ。 その隆慶一郎は柳生一族の人々を主人公にした短編を幾つも刊行しており、『柳生非情剣』という短編集にまとまっている。柳生といえば真っ先に名前が出てくるであろう柳生十兵衛を主人公にした「柳生の鬼」や、家光の寵愛を受けたがゆえに悲劇に見舞われる美剣士・柳生左門の「柳枝の剣」といった有名な兄弟の話はもちろんのこと、どちらかと言うと…

『影武者徳川家康』歴史の裏から立ちのぼる鮮やかな伝奇

…の戦いで死んだはずの島左近と彼に仕える忍びの六郎(なんと家康を殺した当人!)、また風魔小太郎といった異能の人々が集まってくる。 ここに「江戸幕府を開いて初代将軍となり、大御所として亡くなるまで天下を支配し続けた」という私達のよく知る徳川家康の後半生に重なる形で、「自由の国を作るために奮闘し続けた男たち」という秘められた物語が鮮やかに浮かび上がる。この優れて伝奇的な構成こそが、『影武者徳川家康』という作品を一代の傑作としている最大の理由と言えよう。もちろん本作の魅力はこれだけで…

【戦国を彩る名軍師たち】三成に過ぎたるものが二つあり――島清興

…い。その意味では、「島左近」の通称で知られた男――島清興(きよおき、勝猛・かつたけとも)は最も相応しい人物の一人と言っていいだろう。 (大英博物館所蔵) 清興は大和の国人の子として生まれ、筒井順慶の補佐をして頭角を現した。ところが順慶の死後に跡を継いだ主君と喧嘩別れをし、諸国を放浪。蒲生氏郷や豊臣秀長といった名だたる将に仕えたのち、石田三成の家臣となった。 三成は豊臣政権で五奉行を務めた人物であり、典型的な官僚タイプである。決して武功がないわけではないが、小説『のぼうの城』で…

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