攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

年表 の検索結果:

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…も差し込みましたが、年表にするとこんな感じです。 金沢城二の丸御殿の歴史(度重なる焼失と再建) 1631年(寛永8年) 本丸御殿の焼失後、利常が二の丸を拡張して御殿を造営 1759年(宝暦9年) 宝暦の大火により御殿を含む城の大半が焼失 1761年(宝暦11年) 御殿の再建に着手 1808年(文化5年) 文化の大火により御殿が焼失、再建に着手 1810年(文化7年) 御殿の造営が完了 1881年(明治14年) 失火により御殿や菱櫓・五十間長屋等が焼失 このように天守や御殿とい…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…式築城論並に築城考証年表」『北海道経済史研究所研究叢書』第40編新人物往来社/編 1995『新選組史料集』新人物往来社 ※『中島登覚え書き』については同書の翻刻に拠った。鈴木 重正 1855『砲術必用 量地筭法』東北大学附属図書館蔵 ※国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースのデジタルアーカイブに拠った。須藤 隆仙/編1996『箱館戦争史料集』新人物往来社 ※『北洲新話』『蝦夷錦』『峠下ヨリ戦争之記』については同書の翻刻に拠って参照した。手島季隆 1857 『探箱録』※…

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館へ行ってきました

…にはパネルで朝倉氏の年表や家系図が展示されています。 朝倉氏はどうしても織田信長に滅ぼされた悪役、弱小大名のイメージが強いかもしれませんが、そもそもは下剋上によって越前を支配した戦国大名であり、100年つづいた戦国大名家という点では小田原北条氏などと並び数少ない名門です。当時の一乗谷には1万人をこえる人口がいたとされ、国内トップクラスの城下町だったとか。 また博物館の学芸員の仕事を紹介するコーナーもありました。発掘調査をするだけでなく、出土品を分析したり、展示するために修復を…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…うした家康 進行用の年表 プロローグ)松平家の歴史=家康誕生前後 松平氏は家康の祖父・清康の時代に飛躍、安城から岡崎へ しかし清康が阿部弥七郎に殺される(守山崩れ)と衰退 →背景には織田家内の争いに松平一族も巻き込まれたか 広忠は桜井松平信定に三河から追放され、今川氏を頼って帰還を果たす 水野信元が織田信秀についたので、今川への忠義を示すために於大の方と離縁→離縁の理由は別の説もあるが、いずれにせよ政略結婚その後、広忠は田原城の戸田康光(初名は宗光で松平清康の偏諱を受ける)の…

戦国時代のはじまりと終わり

…を補足しつつ、巻末の年表では1438年(永享10年)の「永享の乱」から「島原天草一揆」までになっている 「クロニック戦国全史」では「享徳の乱」から「大坂の陣」まで といった感じで少し古い書籍も含まれているとはいえ「応仁の乱」説が濃厚でした。「島原天草一揆」までを戦国時代とするのはおそらく幕末の動乱をのぞけば、これが最後の内乱だということなのでしょうね。 なんで曖昧なのか ここで基本的なところから考えてみると、「戦国時代」という名称はほかの「鎌倉時代」や「江戸時代」といった名称…

「光秀と信長―天下布武の道―」参加レポート

…が、同時に掲載された年表にはあったので、合計が49になるようにぼくが追加しました。 信長は足利義昭を奉じて入京してから「本能寺の変」で討たれるまでの15年間において、49回の上洛が記録されています。平均で年3回以上とすごく多いのですが、それは京都に拠点(居城)を築かなかった、信長と京との心理的距離感を表してもいるとのことでした。 ただし城を築こうとしたこともあって、それは義昭の追放後、安土城の築城とほぼ同時期に築かれた二条御新造です。のちに誠仁親王に献上され(正親町天皇の禁裏…

江戸時代をデータベース化する

…ータを、藩主の履歴や年表と組み合わせて表現するのはなかなかおもしろいんじゃないかと自画自賛しているところです。 ちょうど先日、自分がどのエリアのお城を訪問してきたかを可視化する「訪問済み日本地図」に旧国バージョンを追加しましたが、攻城団ではデータを「どう見せるか」についていつもより良い方法を模索しています。 kojodan.jp これから徐々にデータを補完していきますので完成するのを楽しみにしていてくださいね。(もっとも江戸時代をデータベースにするには人物の追加はもちろんのこ…

かつての王都・浦添グスクと浦添ようどれを取材してきました(伊祖グスクも)

…ふたつの時代 ここで年表を見てみましょう。浦添グスクの使用年代はふたつの時期に限定されます。築城は13世紀末、廃城は1609年の薩摩侵入ですが、その間ずっと使われたわけではなく空白期間があるということです。 築城は英祖王か ひとつは英祖王の築城から琉球を統一した尚巴志によって滅ぼされるまでの期間です。浦添グスクの城主として実在が確実視されているのは察度王です(明の書物にも記載されているのがその理由)。しかし発掘調査の結果、それより以前、13世紀末の咸淳年間(1265年〜127…

一泊二日で大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの地をめぐってきました

…。 人物相関図と簡易年表 ご存知のとおり、明智光秀と細川藤孝は旧知の仲です。光秀が足利義昭に仕えていた頃は藤孝の家臣という扱いだったようです。その後、織田家に仕えるようになるとふたりの立場は逆転して藤孝は光秀の与力(軍事行動を取る際は指揮下に入る関係)となりますが、光秀の三女・たま(のちのガラシャ)と藤孝の嫡男・忠興が結婚しているので、親戚関係になっています。今回のツアーはこの4人(光秀、たま、藤孝、忠興)がメインですが、夫人や主君も含めた人物相関図を用意しました。ちなみにた…

二条城歴史講座「二条城は誰のものか―明治維新後の歩みをたどって―」を聞いてきました

…は以下のページにある年表のとおりなので割愛します。 kojodan.jp 二条城の歴史というと幕府やせいぜい公家の記録くらいしか気にしたことがなかったのですが、今回のように近世・近代が対象となると池坊だったり、海外からの来賓の日記などにも二条城の様子が書かれているんですね。そういう新しい視点での見方を教わったことがとてもおもしろかったです。 最後に、この歴史講座は平成29年〜30年にかけて実施された「二条城歴史調査」の結果を踏まえ、調査に参加された先生方がご自身の担当領域につ…

大政奉還についての誤解〜教科書でよく見る絵のように慶喜が諸侯に発表したわけじゃない?〜

…なります。(この詳細年表は「二条城の歴史」のページにあります) 1867年(慶応3年) 10月11日、幕府、大政奉還に先立ち、諸藩に13日の登城を命じる。 10月12日、慶喜、松平容保、松平定敬ら在京有司を二条城に召見し、大政奉還の意思を伝える。 10月13日、二条城大広間に在京十万石以上の諸藩重臣を召集し、老中より大政奉還決意書を示して諮問し、かつその藩主の上京を命じる。鹿児島藩士・小松帯刀、高知藩士・後藤象二郎、広島藩士・辻将曹、岡山藩士・牧野権六郎、宇和島藩士・都筑荘蔵…

【サイン本プレゼントあり】「幕末姫―葵の章―」のご紹介

…す。 歴史は出来事の年表を丸暗記することではなく、その時代に生きた人々を想像し理解することだと思うので、そのとっかかりとしてもすごくオススメです。 最後に、藤咲先生からのメッセージをご紹介しますね。 (サイン本プレゼントの応募フォームはその下にあります) 藤咲先生からのメッセージ 「幕末姫―葵の章―」絶賛発売中です! みなさん、こんにちは。作家の藤咲あゆなです(私も団員ですが登録名はナイショです。ごめんなさい!)。 福井県の名城めぐりツアー......流れてしまって、とても残…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…返ってみましょう。 年表にしてびっくりしましたが、まだ初回から数えると10年も経ってないんですね。 前半のストーリー振り返り 大河ドラマ『真田丸』は武田家が滅亡する1582年(天正10年)からはじまります。 この年は織田信長が横死する「本能寺の変」が起きた年でもあり、戦国時代の一大転換点となった年なのですが、まさかここからスタートするとは思いませんでした。 あと個人的にはバイオリンが流れるオープニングにこんなにハマるとは思わなかったです。いまではあの曲を聞くたびにテンションが…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…に起きた出来事などを年表にまとめました。 こうして信繁の生涯の浮き沈みをグラフにしてみると、最後の最後に花道が用意されていて、(まあ死んじゃうとはいえ)クライマックスが最終回という、ドラマの主人公としては申し分ない人生ともいえますね。「あしたのジョー」みたい。 大河ドラマ『真田丸』は1582年(天正10年)3月からはじまりますが、信繁はその3年後の1585年(天正13年)から上杉家、羽柴家(豊臣家)での人質生活を送ることになります。 ようやく父・昌幸のもとに戻ったかと思うと、…

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