攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

承久の乱 の検索結果:

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…んなものだったか?→承久の乱までの初期はただの役人のようなもので、世襲できていない→承久の乱以降は世襲するようになったが、封建領主的にはまだ権限がそこまでではない。また、結局のところ北条氏にかなりの部分で独占されてしまっていた。元弘年間末期の時点で、57国中北条一門が30、外様御家人22、守護不設置5。この中で頼朝以来になるとさらに減って、足利や千葉、佐々木、大友、島津など八氏十国。→この時代の守護はその地域の軍事を統括する役職であり、行政面ではともかく軍事面では大きな力を持…

【10大戦国大名の実力】毛利家①――組織を守るために何をすべきか

…府を倒そうと挙兵した承久の乱で活躍して名を上げた。ところが政争に巻き込まれたせいで、四男・経光(つねみつ)以外は全滅する。それでも越後国佐橋荘と安芸国吉田荘は残されたため、前者の一部と後者が経光の四男・時親(ときちか)に与えられ、ここから安芸毛利氏が始まった。 時親の時代に居城・吉田郡山城が築かれ、以後鎌倉時代を通して毛利氏は吉田荘の地頭職を務め、安芸国に根を張った。室町時代になると毛利氏は安芸でも有力な国人のひとつになり、時には周辺国人と連合――すなわち国人一揆を結成して守…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…戻したい後鳥羽上皇が承久の乱を起こすも敗れて配流される、武家政権の確立 腐敗した鎌倉幕府に対して後醍醐天皇が倒幕運動を繰り返し(正中の変・元弘の乱)、有力御家人の足利高氏を裏切らせて勝利 後醍醐天皇は建武の新政を開始するが武士の不満を抑えることができず、離反した足利尊氏に京を追われる(延元の乱) 室町幕府は3代・義満が有力守護を排斥して権力を強化したが、中期には応仁の乱が起こるなど不安定な時期がつづいた 関東では享徳の乱から長享の乱と戦乱が続いて戦国時代に突入 本能寺の変後に…

【サイン本プレゼントあり】「執権義時に消された13人」のご紹介

…―闘争と粛清で読む『承久の乱』前史」が11月18日に発売されます! タイトルを見てもわかるように、来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にもぴったりな一冊となっています。鎌倉幕府は日本で初めて誕生した武家政権ということもあり、その初期は血で血を洗うような闘争が繰り広げられました。一番の要因は初代将軍である源頼朝が急死したことにあるのですが、そのあとを継いだ2代将軍・源頼家の時代に十三人の合議制という会社でいう取締役会のようなものが設置され(これが「鎌倉殿の13人」ですね)、…

【クーデターで読み解く日本史】朝廷と幕府の力関係を決定づけた戦い――承久の乱

…されるなど、幕府による処分は非常に厳しいものだった。 この戦いの結果、幕朝関係のバランスは崩れ、完全に幕府が有利になる形となる。かつて京における平家の拠点であった六波羅には六波羅探題が設置され、京の警備・朝廷の監視、西国の管理が役目となった。 承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱 (中公新書) 作者:坂井孝一 中央公論新社 Amazon 承久の乱 日本史のターニングポイント (文春新書) 作者:本郷 和人 文藝春秋 Amazon 日本史大図解 承久の乱 宝島社 Amazon

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府5代・藤原頼嗣――「とばっちり」で京に戻された将軍 1239年~1256年

…わなかった。しかし、承久の乱での勝利を経て、当時と今では幕府と朝廷の力関係は大きく変わっている。 結果、1252年(建長4年)に後嵯峨天皇の第一皇子である宗尊親王(むねたかしんのう)が鎌倉に迎え入れられると、代わって頼嗣は「父に加担し、北条氏を追放しようとしたのではないか」という疑いをかけられてしまい、将軍職から廃せられ、京へ追放された。それはまさに「用済み」とでも表現するべき処置であった。頼嗣はしばらく京で暮らしたが、父と同じ年に亡くなっている。 このときの頼嗣、わずかに1…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府4代・藤原頼経――親王の代わりに招かれた摂家の血 1218年~1256年

…いたから、という。 承久の乱と「尼将軍」北条政子 頼経が鎌倉にたどり着いた翌年、鎌倉幕府は存亡の危機を迎えた。武家政権打倒を目指す後鳥羽上皇が、討幕の兵を挙げたのである。いわゆる「承久の乱」であった。もちろん、この一件に幼い頼経は一切関与していない。上皇としては武家連合としての幕府を分裂させようという企みがあったらしい。実際、彼の下には畿内近国の武士どころか有力御家人まで集まった。また、討伐対象を執権・義時ただひとりに絞ったこともあって、少なからず鎌倉の御家人たちも動揺したよ…

【歴代征夷大将軍総覧】摂家将軍・親王将軍――鎌倉時代②

…り戻そうと挙兵する「承久の乱」が起きている。これを御家人たちの結集によって乗り切った鎌倉幕府は、朝廷と天皇に対して優位を確立し、その政権運営は安定期に入ったといっていいだろう。 その鎌倉幕府も、やがて衰退の時期に入っていく。要因は大きく分けてふたつある。ひとつは、御家人たちの窮乏が進んだことだ。この時代の武士たちは子供が複数いれば領地を分割して相続するのが当たり前だったので、代を経るごとに御家人たちの領地は小さくなり、結果として貧乏な御家人が多数生まれることになる。しかも2度…

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