攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

新井白石 の検索結果:

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…いっても、柳沢吉保と新井白石と田沼意次では違う。藤原氏と北条氏も違う。その違いにこそ物語があり、歴史の面白みがある。 俯瞰することで「パターン」は見えてくるのですが、細かく見ていくと個別に異なっているんですよね。その差異を見つけていくことに歴史を学び楽しむ余地があり、攻城団では今後もいろんなコンテンツをつくっていこうと思います。ぼくは「下馬将軍」の異名を持つ酒井忠清が非常に印象深かったのですが、みなさんはどのナンバー2に惹かれますか? ぜひ読んで感想を聞かせてください。 以下…

【殿様の左遷栄転物語】第5章まとめ 後ろ盾をなくしてしまえば……

…躍したのは間部詮房と新井白石の両名であるが、彼らは最初に仕えた家宣の子である家継を将軍に擁することができたので、その権勢を維持できたわけだ。家継もまた亡くなり、その後にやってきたのはまったく別のバックボーンを持つ吉宗だったのだから、政権から追われたのは当然のことだったのだ。 成り上がることの覚悟 彼らの教訓を現代に生かすのであれば、「ワンマン社長の引き立てで出世をするにあたっては相当の覚悟がいる」ということになるだろうか。社長が健在なうちはいいが、いなくなった瞬間に社内での立…

【殿様の左遷栄転物語】将軍のブレーン・新井白石

神童・新井白石 家宣の将軍親政に大きな役目を果たした人物としてもうひとり、新井白石(白石は号で、名は君美)の存在も欠かせない。彼は儒学者として家宣の師を務めた人物であり、家宣の親政をブレーンとして強力にバックアップした。 白石自身が残した記録によると、新井家は清和源氏の新田家の流れを汲むとされる。父・正済の代には上総国久留里藩主の土屋利直(つちや としなお)に仕えていた。利直は正済を深く信頼し、その子である白石をも寵愛した。3歳の頃から身近において「火の児」という愛称で呼んで…

【殿様の左遷栄転物語】徳川家宣の時代 間部詮房

…まなべ あきふさ)と新井白石(あらい はくせき)の両名である。このふたりは、家宣が将軍就任から3年で若くして亡くなった後も、7代将軍である家継を補佐する形で幕政の中心にいつづけた。彼らが政治を行った時期を称して「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ぶ。 間部詮房という人 側用人・間部詮房は、かなり複雑な経緯をたどって家宣の側近となった人である。もともと彼の血筋は藤原家の流れで、やがて徳川家康の祖父である松平清康(まつだいら きよやす)に仕え、詮房の父・清貞の代には家宣の父である綱…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉が最も寵愛した男、柳沢吉保

…だろうか。たとえば、新井白石などは「天下のすべてのことは彼の思うままになってしまい、老中は彼の言うことを外に伝えるだけになってしまった」と強く批判している。側用人として綱吉の意思を外に伝える吉保が、自らの思うように将軍の言葉を曲げている、という指摘であろう。 しかし、この指摘は実際には的外れのものであったようだ。吉保が幕政に自分の意見を投影させるようなことはほとんどなく、将軍独裁体制を作ろうとする綱吉の側近として、彼の意思を外へ伝えることこそが彼の役目だった。白石のように吉保…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府8代・徳川吉宗――幕府を大改革した、強運の将軍 1684年~1751年

…治を取り仕切っていた新井白石・間部詮房らを退け、代わって長らく政治への発言力を失っていた譜代の名門大名たちを重く扱った。しかし、その一方では側用人と同種の役割を果たす「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」を設置し、ここに紀伊藩主時代からの側近を配置することでバランスのいい政治を試みてもいる。彼が抜櫂した人材は多いが、特に町奉行などを務めた大岡忠相(おおおか ただすけ)は有名だ。 ちなみに、吉宗は「正徳の治」時代の政策を転換していったわけだが、白石を嫌っていたわけではないらし…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府7代・徳川家継――最年少将軍も、治世は続かず…… 1709年~1716年

…を譲ろうと考えたが、新井白石(あらい はくせき)によって止められた。 白石としては「内乱を起こさないためにも、宗家の人間がいる限りは宗家で継承していくべきで、それでも絶えてしまったら御三家から選べばいい」と考えていたようだ。家宣は遺言として御三家に「協力するように」と言い残しているが、もしかしたらここにも白石の言葉の影響があるのかもしれない。 こうして将軍となった家継であるが、もちろん幼児に実務が行えるはずもない。結果として、間部詮房(まなべ あきふさ)が後見人として補佐し、…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府6代・徳川家宣――短い治世ながら、英才を活用した名君 1662年~1712年

…問に熱心で、後述する新井白石(あらい はくせき)からさまざまなことを学んだが、その際はどんなに暑くても正装で臨み、扇で扇いで涼をとろうとさえせず、蚊がやってきても無視した、という。講師に対する礼儀を守り、学問以外のことに意識を割かない、驚くほど真面目な生徒であったのだ。また、将軍の後継者になるにあたっても、いち早く贈り物を用意しておもねってきた幕府重鎮に対して、むしろ相手を遠ざけるという断固たる姿勢を見せた。これもまた、生真面目さの表れであるといえよう。ただその一方で猿楽を好…

【江戸時代のお家騒動】宇都宮釣天井事件ーー秀忠派が長安事件の復讐を果たす?

…保武蔵鐙』をはじめ、新井白石の『藩翰譜』、幕府が編纂した『徳川実紀』などでこの事件が脚色されて伝わったためだ。その内容は、「正純が秀忠の泊まる予定だった宇都宮城の御殿に釣天井を仕掛け、将軍を暗殺しようとした」というものである。この釣天井の上に大きな石を載せ、秀忠が入浴しているときに釣り縄を切って天井を落とし、圧殺しようとしていた、というのである。 もちろん、城内の取り調べでそのような仕掛けがなかったことは確認されている。要するにつくり話なのだが、錦絵や芝居などによって広まった…

7.寵臣の出世と末路

…の師であった儒学者・新井白石と協力して幕政を動かしていた。さまざまな改革が行なわれたこの治世は「正徳の治」として後世まで語り継がれている。 加納久通・有馬氏倫 加納久通と有馬氏倫は8代将軍・吉宗の紀伊藩時代からの側近である。吉宗は幕政を食い物にしていた側用人を廃止し、御側御用取次という新しい役職を置いた。それに就いたのが久通と氏倫だ。もっとも、御側御用取次の役目は将軍と老中の間を取り持つことで、実質的には側用人と変わらなかったようである。2人はともに陪臣から直参となり、久通は…

4.出世と譜代大名

…、代わって間部詮房や新井白石といった人々が側用人・老中として大きな力を持った。ところが、8代将軍・吉宗は白石らを政治から退け、側用人の役職も廃止。そこから老中に任命される者が出てきて、権力を独占することがないようにしている。これは側用人政治の時代に幕政から遠ざけられていた譜代大名たちが政治の場に戻ってくることを意味していたが、一方で吉宗は自らの側近に御側御用取次という形で側用人と同じ役目を与えており、なかなかにしたたかな統治者であったといえる。 10代将軍・家治~11代将軍・…

「大奥」を読みました

…建されていません。(新井白石らにより再建の計画はされたのですが、実現していません) 1657年といえば4代将軍・徳川家綱の時代ですから当然、吉宗の時代には江戸城に天守はありません。この頃は富士見櫓を実質の天守としてたはずです。 あとそもそもこれは姫路城ですよね。姫路城の写真と見比べてみればよくわかると思います。 まあお城のシーンに場面転換する際にいちばんわかりやすいのは天守を見せることですし、このくらいはしょうがないかなと思うんですけど、せめて寛永度天守らしく壁面は黒色に、屋…

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