攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

最上義光 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…城(山形県山形市) 最上義光歴史館 1000円 印刷 2023年10月1日 涌谷城 御城印 涌谷町立史料館 開館五十年記念版 涌谷城(宮城県涌谷町) 涌谷町立史料館 300円 印刷 A6 2023年9月28日 天神山城 御城印 天神山城(千葉県富津市) 和風料理宮島、グランドーム千葉富津、高梨商店、まるごとしすい 300円 印刷 2023年9月23日 姫路城 御城印 城ジェンヌ 桜版 姫路城(兵庫県姫路市) macaroni雑貨 400円 印刷 A6 2023年9月22日 佐…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…ライバルとして有名な最上義光(よしあき)の家である。豊臣秀吉によって取り潰されることもなく、関ヶ原の戦いで東軍につくなどして江戸時代へ入ったが、家臣団に内紛があり、そのせいで五十数万石の所領は一万石へ減らされた後、結局五千石の高家になってどうにか残った。※奥州管領・羽州管領は室町幕府の構造のところで紹介した奥州探題・羽州探題の前身。 畠山氏 ・畠山氏も応仁の乱の時に分裂した。その片方、畠山義就(よしなり)こそが応仁の乱の火付け役ではないかと言われており、実際に義就は乱が終わっ…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…・最上氏の当主である最上義光と、隠居した父・最上義守との間で起こった争い。伊達輝宗が義守に味方したため、義光方の勝利にともない最上氏は伊達氏より完全に独立する 戦国時代 1576年(天正4年) 三瀬の変 隠居していた北畠具教やその次男で長野氏を継いでいた長野具藤らが織田信雄に謀殺された事件 戦国時代 1578年(天正6年)〜1579年(天正7年) 第一次天正伊賀の乱 織田氏と伊賀惣国一揆との戦い。信雄が無断で伊賀に侵攻して敗れたため信長は激怒 戦国時代 1578年(天正6年)…

【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

…この苦境に現れたのが最上義光である。彼は自分の弟をはじめとする最上一族や国人衆といったライバルを次々と打ち倒して最上家を統一し、また自らの甥にあたる伊達政宗とも激しく戦って、東北の有力大名のひとりに成り上がった。関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、西軍側の上杉家による攻撃を耐え抜いた。この時、最上家の支城のひとつ、長谷堂城をめぐって争われた戦いは、上杉家の重鎮である直江兼続の活躍もあって、「東国の関ヶ原」などと呼ばれたりもする。 この功績によって、義光は57万石を有する大大名となる…

最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由

最上義光の居城として知られる山形城には瓦葺きの御殿はあっても石垣はないとか、全国的に見ても少し変わった特徴が見られます。なぜこういう矛盾(いびつな進化)が見られるのかについて考察されている、いちなんさんに寄稿いただきました。 今年の花の見納めにと、山形城外堀の花筏を見に行く。ここの八重桜は見事だから、さぞや花筏も立派であろうかと。わざわざ前泊し、山形駅西口のビジネスホテル(じつはここも城内で、仙山線は城の外堀を走っている)を4時半に出て、山形城の外堀に行くと、何と花筏は山形市…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…と、盛胤は伊達と戦う最上義光と同盟を結び、挟み打ちの形を取っている。 戦いは多年にわたって断続的に続き、周辺の縁戚にある諸勢力が和平の仲介に働いたが、実現しなかった。結局、両者の争いが一時休戦状態になったのは天正6年、隣国越後で上杉謙信の跡目をめぐる後継者争いが勃発し、国境が不安定になったため伊達軍がそちらへ出兵せざるを得なかったことが原因だった。ただ、この時期には相馬・伊達両勢力の内部でも状況の変化が起きている。相馬氏は同年に盛胤が隠居して31歳の義胤が家督を継ぎ、伊達氏で…

【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立

…舞台】山形藩【藩主】最上義光、最上家親、最上義俊【主要人物】最上義光、最上家親、最上義俊 関ヶ原直後に起こった嫡子殺害事件がルーツ この「最上騒動」はひとつの事件を指すものではなく、長年にわたって混乱した山形藩の情勢を指すものである。最終的に最上家は、1622年(元和8年)に改易となるのだが、そこにいたるまでには大変な紆余曲折があったのだ。 山形藩最上家内部の混乱は最初から――つまり初代藩主・最上義光の頃からすでにあった。というより、さらに遡るなら最上氏は戦国時代の頃から内部…

長谷堂城 最上氏を守った堅牢な城

…った。元々、山形城主最上義光は家康には批判的で、景勝に賛同する立場であった。しかし、東軍が有利な状況を知って家康に与した。その態度に怒った景勝は家臣の直江兼続に命じて、義光を討つために兵を出した。兼続は米沢城(山形県米沢市)を出発し、9月13日に山形城の支城・畑谷城を攻め、1日で落城させてしまった。 次に兼続は同じく山形城の支城・長谷堂城を狙った。山形城を落とすには、長谷堂城を攻略する必要があり、義光は多くの兵を長谷堂城の守備に当てている。9月15日、兼続率いる上杉軍が長谷堂…

5.支配者としての大名たちの苦悩

… 最上家を躍進させた最上義光は、伊達政宗の叔父にあたる人物で、内乱の続く最上家をまとめると、たびたび甥の政宗と戦いながら勢力を広げていった。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、西軍の上杉勢による攻撃にさらされながらもよく守りきり、戦後には山形藩57万石の大大名にまでなったのである。ところが、2代目の家親が36歳の若さで変死(毒殺とも)してしまったせいで、その子の義俊が弱冠13歳で跡を継ぐことになった。しかも、山形藩では兵農分離が不徹底で、家臣団の近世的武士への転換が上手くいかなかった…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…達輝宗(てるむね)と最上義光の妹、義姫との間に嫡男として米沢城で生まれています。 戦国時代後期に伊達氏の本拠地が置かれ、政宗が生まれた事でも知られる米沢城は舞鶴城、松ヶ岬城とも呼ばれ米沢市のほぼ中心に位置しています。輝宗から政宗へと当主が変わっても本拠地として使用され、米沢に城下町が成立したのはこの時代と考えられています。 米沢城は伊達家の後に越後から上杉家が移ってきたので上杉家のゆかりの地としても知られています。 現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、そこには上杉謙信の…

【戦国を彩る名軍師たち】主君の信頼を得て大いに働いた直江兼続

…のように外交で大きく動くことを許されていたということが、また兼続と景勝主従の信頼関係を証明づけるものと言って良いであろう。 結果、各地で戦いが始まった際には、東北で上杉軍を率いて最上義光と戦うも、遠い関ヶ原で三成が敗北した為に引き下がらざるを得なくなる。その後は江戸幕府の支配下で上杉家を生き残らせる為の外交、また会津120万石から米沢30万石へ大きく減じられたことを補う為の行政政策に奔走。最後まで主君を支え続けたのであった。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2015年1月9日)

日本全国の戦国関連資料館

… 住所 関連する城 最上義光歴史館 山形県山形市 山形城 米沢市上杉博物館 山形県米沢市 米沢城 宮城県慶長使節船ミュージアム 宮城県石巻市 仙台市博物館 宮城県仙台市 仙台城 みちのく伊達政宗歴史館 宮城県宮城郡 逆井城跡公園 茨城県坂東市 逆井城 中之条町歴史民俗資料館 群馬県吾妻郡 岩櫃城 甘楽町歴史民俗資料館 群馬県甘楽郡 小幡陣屋、国峯城 鉢形城歴史館 埼玉県大里郡 鉢形城 川越歴史博物館 埼玉県川越市 川越城 行田市郷土博物館 埼玉県行田市 忍城 埼玉県立嵐山史跡…

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