攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

朝倉義景 の検索結果:

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館へ行ってきました

…。ここには5代当主・朝倉義景が暮らした朝倉館の一部が原寸大で復元されています。博物館内に建物がそのまま建てられているなんてびっくりですね。 もちろん焼けてしまったので、室内の障壁画などは想像復元なのですが、朝倉氏のお抱え絵師であった曾我派の絵を模写しています。 そんなこだわりのある原寸再現ですが、復原町並の向かいにある一乗谷朝倉氏遺跡の訪問前に見学しておくべきです。というのもこの花壇を見ておいたほうがいいからです。この笏谷石で囲われた花壇は来客が見る側は整形された石で囲われて…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…と言えば、織田信長と朝倉義景・浅井長政の間で起こった戦いとして有名です。この戦いに徳川家康はどのように関わっていたのでしょうか? そして、この戦いを経て状況はどのように変わったのか。家康の足跡をたどります。 織田信長vs浅井長政・朝倉義景 -姉川の戦い前夜- 浅井長政の肖像画(高野山持明院像)と朝倉義景の肖像画(心月寺所蔵) まずは、姉川の戦いに至るまでの状況をおさらいしておきましょう。1570年(元亀元年)2月、信長は足利義昭を奉じて京へ出発、3月5日には上洛を果たします。…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…いました。大内義隆、朝倉義景、今川氏真、武田勝頼など家を滅亡させてしまった当主はどうしても無能で暗愚なイメージで語られがちですが、冷静に見ないといけませんね。(浅井長政は彼らに比べると暗愚な描かれ方をしていないのはやはりお江の父親だからでしょうか) まとめとしては、有名な合戦で負けても滅亡していないのは そもそもたいした規模の合戦ではない(殲滅戦にはならないし、盛られてる) 居城や領国が安泰なら挽回可能 有力家臣や国衆が離反し、本拠に攻め込まれるから滅亡する というあたりでし…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台④――お市の方が最初の夫と死に別れた城・小谷城

…元年)に信長が越前の朝倉義景を攻めると、朝倉氏と古くからよしみを通じていた長政は同盟を破棄、反信長の姿勢を鮮明にした。 これに対し、もちろん信長は激怒。同年には姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を打ち破るも、両者に決定的な打撃を与えるには至らなかった。その後、信長はいわゆる「信長包囲網」で苦しみつつ、ゆっくりと浅井氏を追い詰めていく。姉川の戦い後に得た横山城に入れた木下藤吉郎(豊臣秀吉、ここでは秀吉で統一)らを使って、近江の国人衆や浅井家臣団に対する切り崩し工作を進めていたのだ。 …

【10大戦国大名の実力】武田家①――名門の長所と短所は背中合わせ

…するなどの活動が見られるが、三好氏などの外敵による侵攻や、家督争いや家臣の反乱といった内紛により衰退していく。兄・足利義輝を松永久秀らによって殺された足利義昭が親族の縁をたどって助けを求めた際も、若狭武田氏には既にその力がなかった。失望した義昭は隣国・越前の朝倉義景のもとへ向かい、これも頼りにならないと知ると織田信長のもとへ移るのだが、また別の話だ。その後、若狭武田家は朝倉氏の侵攻に晒されて降伏、その家臣になった後、信長の越前侵攻で滅亡する。1573年(天正元)のことである。

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

…たのが、越前の名族・朝倉義景(あさくら よしかげ)だった。彼は義昭を領内に迎え入れてはくれたものの、「上洛のために出兵してくれ」という義昭の説得にはなかなか応じなかった。そうこうするうちに義輝の討死から三年が過ぎ、1568年(永禄11年)を迎えた。この年の4月、義秋は朝倉氏の一乗谷城にて元服し、名を義昭と改める。 信長との蜜月はわずかな期間だけ 織田信長が義昭にコンタクトをとってきたのは、その年の7月である。信長は前年に美濃を平定し、次は上洛に踏み出そうとしていた。そこで、「…

【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は?

…とになった足利義昭や朝倉義景、本願寺顕如といった諸勢力が、信長と戦うために信玄の武力を頼った、ということでもある。 1570年(元亀元年)、武田重臣で高遠城主(長野県伊那市)の秋山信友に、信玄より「(景任の)岩村城を攻め落とし、東濃を奪い取れ」という指令が下る。もちろん、目的は織田氏を攻めることだ。たちまち大軍が岩村城を包囲する。信長も手をこまねいていたわけではない。すぐに援軍を送り、織田・武田の両勢力が岩村城をめぐって激しくにらみ合うことになった。この戦いは3年にも及び、そ…

明智光秀と浅井長政ーーあるいは「不安」が背中を押したのか?

…ころが、信長が越前の朝倉義景を攻めたとき(名目上は幕府としての行動であり、光秀をはじめ幕臣たちも付き従っているが、信長が朝倉を排除したかったのだと考えるのが通説だ)、長政は突如として義兄を裏切る。これによって信長は近江で孤立してしまうことになるが、しんがりの家臣を残して京へ逃走。西近江に大きな力を持ち京への逃走路に領地を持つ朽木元綱(足利義昭を一時匿うなど、幕府との関係が深い)の協力を得て、どうにか逃げ切ることに成功するのだった。 一方、しんがりで活躍した武将としては木下秀吉…

明智光秀と足利義昭――あるいは選ばなかった主君

…る。 越前へ来たのは朝倉義景を頼るためだったが、実際の武力行動には移りそうもなかった。そこで美濃を手に入れたばかりの信長と手を組み、上洛を目指すことになる。このときに仲介役を果たしたとされるのが明智光秀であるわけだ。信長に擁立された義昭は上洛を果たし、三好三人衆を追い落としてついに将軍に就任する。この時期の義昭は信長と親密の関係にあったが、やがて方針・権益が対立し、険悪な間柄になってしまう。この対立が激化し、周辺勢力も巻き込んで、信長は京・岐阜を包囲されつつ戦うことになるわけ…

明智光秀と斎藤龍興ーーあるいは越前でニアミス?

…らだ。ここまで紹介してきた通り、龍興が朝倉義景の庇護下に入ったのは信長包囲網の時期。この頃の光秀はすでに織田家臣(幕府直臣との両属関係ではあったが)であって、とうに越前を離れている。美濃に戻ったときに龍興のことを知って思うところはあったかもしれないが、越前に逃れたことについてはいまさらであったのではないか。 その龍興の信長との戦いは、越前で終わることになる。朝倉家滅亡に先だって戦場で討死したのだ。それから間もなく信長包囲網は崩壊し、織田家はさらなる躍進を遂げていくこととなる。

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…た通り、吉家は主君・朝倉義景と運命を共にした。彼の嫡子も、ほかの山崎一族も、その多くが同じ戦いで討死している。ところが吉家の弟・吉清の子の長鏡(改名して長徳)は生き延び、光秀の家臣になっているのだ! ただの偶然か、光秀が越前時代のことを懐かしんだのか、それとも吉家との間に何か約束があったのか……そこまではさすがに考えすぎであろうか。ともあれ、長徳は「山崎の戦い」を生き延び、晩年は前田利家に仕えて、最後には1万石を越える重臣にまでなった。彼の子供たちはいくつかに別れた前田家にそ…

明智光秀と朝倉義景ーーあるいはあやふやな朝倉家臣伝説

…ることになるひとりが朝倉義景だ。朝倉氏は越前国の武士で、「応仁の乱」に乗じて斯波氏を追い落として大きな勢力を獲得した。早い段階から分国法を制定したこと、戦国乱世においても室町幕府との結びつきが深かったことなどが知られている。当主ではないが朝倉宗滴は名将として知られ、「大将というのは犬と言われようと、畜生と罵られようとも、勝つことが大事なのだ」と語ったーーという話が有名だ。また、宗滴は死ぬ前に織田信長を評価する言葉を残したともいう。 さて、義景である。戦国朝倉家五代の末である義…

明智光秀と明智牧ーーあるいは創作に語られる「母」

…田氏は隣接する越前の朝倉義景の侵略を受け、実質的な支配下に置かれている。その後、織田信長が朝倉を打倒したことで人質になっていた元明も解放されたものの、信長は彼に本来の地位たる若狭守護を返さなかった。若狭は信長の重臣である丹羽長秀に与えられ、元明はその与力という位置に甘んじなければならなかったのである。そんな彼の運命が開かれるかと思われたのが本能寺の変だ。信長が光秀に討たれると、元明は即座に(『明智系図』を信じるなら)従兄弟にあたる光秀に与して、丹羽長秀を攻撃した。ところが光秀…

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…その後、光秀は越前の朝倉義景を頼って仕えたと言われています。 1565年(永禄8年)に室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺されると、その弟である足利義昭は織田信長を含む各地の武将に自身の将軍擁立と上洛を促し、細川藤孝を使者に立てて奔走。各地に援助を求めた結果、朝倉義景を頼ることになり明智光秀はそこで義昭と接触を持つことになったようです。 朝倉家に身を寄せていた足利義昭を上洛させようと奮闘していた光秀は、いくら催促しても動かない朝倉義景を頼りにならない…

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」キャスティング一覧

…芸人一座の女座長。 朝倉義景 ユースケ・サンタマリア 越前を支配する戦国大名。 近衛前久 本郷奏多 関白。 芳仁 ベンガル 【架空?】駒の灸の患者。 スタッフリスト 語り・ナレーション 市川海老蔵 時代考証 小和田哲男 衣裳デザイン 黒澤和子 風俗考証 佐多芳彦 建築考証 三浦正幸 医事考証 星野卓之 古文書考証 大石泰史 時代考証補 小和田泰経 所作指導 花柳寿楽 芸能指導 友吉鶴心 殺陣武術指導 久世浩 馬術指導 田中光法 題字 中塚翠涛 音楽 John R. Graha…

明智光秀と細川藤孝――あるいは立場の違う同僚

…て京都を脱出、越前の朝倉義景のもとをへて信長と連絡を取り、ついに捲土重来を果たしたのはあまりにも有名だ。この時、藤孝と光秀は同僚として協力し合ったはずだが、明智氏が幕臣として活躍した時期はあれど本人は地方武士に過ぎない光秀と、傍流とはいえ天下の名門細川氏の藤孝では格の違いがある。この関係をどんなふうに書くのか、ドラマの今後が楽しみでならない。 なお、藤孝の実家である三淵家は兄の藤英が継いで、引続き幕府に仕えている。藤英は義昭の越前行きにも同行しているし、将軍就任後は幕臣として…

明智光秀と織田信長、あるいは「逆算された光秀」

…い。光秀からすれば、朝倉義景→足利義昭と仕えてきて織田信長を新たな主君と見出すにたる何かを見つけたはずなのだ。信長からしても、柴田勝家や丹羽長秀、あるいは羽柴秀吉といった以前からの家臣たちを差し置いて光秀を抜擢するには、何かしらの有用性を見出したことであろう。 2人にあったのは野心の合致であったのか、性格的な共通点(いわゆる「ウマが合う」)であったのか、それとも天下の行く末について理想や意見が共鳴したのか。今となっては答えがわからぬことだが、2人の関係が決裂したと知っている私…

【戦国合戦こぼれ話】信長の配慮不足が招いた朝倉討伐失敗

…、信長は越前の名門・朝倉義景を攻めるべく、兵を率いて京を発った。この2年前、信長は足利義昭を奉じて上洛し、彼を将軍の座につけることによって大きな勢力を獲得していたが、一方でその御輿である義昭との間には微妙な対立関係が生じてもいた。そんな信長が発した「上洛せよ」という命令を無視し、敵対的姿勢を隠さなかったのが、かつて義昭を保護していたことのある朝倉氏だったのである。 信長は3万の軍勢を率いて越前に入ると、まず敦賀郡の攻略にかかった。この地域の主城は金ヶ崎城であったが、信長はあえ…

「戦国武将細川藤孝とその周辺」参加レポート

…(武田義統)→越前(朝倉義景) 一乗谷で明智光秀と出会う、光秀の橋渡しで義昭・藤孝主従を織田信長のもとへ 1568年(永禄11年)10月18日、信長に擁立された義昭が将軍になる 朝倉義景が上洛しなかったのは実子を亡くして落胆していた時期だったため。上洛を急ぐ義昭はほかの庇護者を探していたところ、光秀のいとこが嫁いでいた信長と出会うことになり、ここで歴史が大きく動くわけですね。 義昭から藤孝に西岡の地が与えられる、西岡衆を与力とする 勝龍寺城に入る 「与力」というのは家臣ではな…

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