攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

本多家 の検索結果:

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…松平清康→田中吉政→本多家→水野氏→後本多氏 まとめ 岡崎城は家康が誕生した城で、今川の支配から独立した城でもあります。その後は三河を平定して領国経営の拠点としました。そういう意味では徳川家康にとっては特別な存在だったともいえるでしょう。まさに徳川家康の人生がスタートしていった城です。2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」でも岡崎在城時代の家康について詳しく書かれるものと思われます。これを機に家康人生をスタートさせた岡崎城をくまなく散策してみてはいかがでしょうか。 参考…

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

…を支えた譜代の名門・本多家の出身であり、彼自身も家康の腹心として内政や謀略の分野で大いに活躍した人物だ。「徳川の知恵袋」「家康の懐刀」などと呼ばれ、家康が彼を「友」と呼んだことからも、彼が徳川家の中で重要な人物であったことがよくわかる。 家康が正信を寵愛したことを物語る、こんな話がある。家康が大御所として天下を支配していた時代、町で「雁どの、佐渡どの、於六どの」という言葉が流行った。これは家康が愛した3つのものを示していて、雁とは鷹狩りのこと、於六とは当時最年少だった側室のこ…

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

…付家老を務めた2つの本多家のその後について、皆さんはどう感じられただろうか。これまでの流れから違和感がある、と思わなかっただろうか。前述のように、自殺した徳川忠長付きの付家老たちは過酷な罰を下されたのに、富正らはまったくといっていいほどこの件で罰を下されず、そのまま付家老として残ったり、大名となったりしているのである。付家老の役目は「監督」なのだから、忠直の行状を止められなかった件について、重い罰が下ってしかるべきではないのだろうか? にもかかわらずのこの結果なのだから、つま…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…追い込まれている。 本多家もまた古くから徳川(松平)家に仕えてきた譜代の名門で、藤原北家の流れであるという。この一族は大きく「定通系」と「定正系」に分かれ、本流である定通系の代表的な人物としては、立花宗茂の項で紹介した本多忠勝がいる。そして、定正系の代表こそが正信・正純親子である、といっていいだろう。 この正信もまたなかなかに数奇な運命をたどった人物である。彼は家康の幼い頃からの側近であったが、三河一向一揆では一揆側について、反乱鎮圧後に出奔。各地を渡り歩いた末に家康の元へ戻…

【江戸時代のお家騒動】越前騒動 市川雷蔵主演映画にもなった史上名高い殿ご乱行

…徳川代々の譜代である本多家出身の富正をはじめとする徳川系家臣団が強い力を持つようになった。これにより忠直の権力基盤はむしろ安定するという皮肉な結果に終わったのだ。 忠直に正室の勝姫暗殺計画の嫌疑かかる しかし越前騒動はこれでは終わらなかったのである。1615年(元和元年)の大坂夏の陣において、忠直は豊臣側で名を馳せた真田信繁(幸村)の首級をあげ、また大坂城一番乗りを果たす大活躍を見せた。これには祖父・家康も忠直の功績を称え「参議に昇格させ、恩賞は後ほど伝える」と口約束をした。…

【江戸時代のお家騒動】越丸騒動 “押込め”された暗君が復帰して大混乱の末、改易に

…あった末、老中であり本多家の親類でもある大久保忠朝に嘆願し、重益の藩政復帰を願い出た。 この織部の働きにより、重益は1693年(元禄6年)に病気が全快したとして藩政に復帰。織部一派もそれに合わせて戻ってきた。反対に、又八らは織部一派の報復として、牢に入れられてしまったのである。又八は憤りから食事を断ち、そのまま命を落とした。その後も投獄された者たちは、相次いで餓死したという。ようやく望みがかなった織部だったが、騒動はここで終わらなかった。藩政に復帰した織部が又八の関係者らを次…

けっきょく江戸時代に藩はいくつあったのか

…合ですね。 井伊家や本多家は江戸時代に入って彦根藩(正確には佐和山藩)や桑名藩に加増移封されますが、そのまま引きつづき同じ領地を藩主として支配した場合もあります。この場合、藩の成立は1590年(天正18年)なのか、あるいは江戸に入ってからちゃんと朱印状が発給されて記録として残っているのかがわかりません。今後ちゃんと調べていけばわかるのかもしれませんが、とりあえずこのケースでは1590年(天正18年)を立藩年として入れています。 藩庁の有無 加賀藩なら金沢城といった感じで、藩に…

江戸時代をデータベース化する

…久保家、藤井松平家、本多家(の分家)、越前松平家(の分家)と6家が藩主をつとめています。 これも単に文字で一覧にするよりも、藩主をつとめた「期間」がわかるようにしました。江戸初期はいろんな大名家が入れ代わり立ち代わりで藩主をつとめたものの、中期以降は越前松平家(の分家の明石松平家)がずっと藩主をつとめたことが横棒の長さから一目瞭然です。 明石藩 もちろんこれは大名家側からも確認できます。小笠原家は明石藩のあと、小倉藩に加増移封されますが、どこの藩主をどのくらいつとめたかがわか…

4.出世と譜代大名

…家や酒井家、榊原家、本多家などの「宿老」大名は、もともと幕閣にはあまり参加しなかったり、あるいは大老職になれる可能性があった。しかし、彼らを除いたほとんどの譜代大名にとっては、老中こそが出世の頂点となる役職だったのである。ゆえに、譜代大名たちは立身出世し、なんとか老中になろうと奮闘する。その出世コースは大きく分けて「中央」コースと、「外回り」コースの2つがあった。 まずは奏者番から京都所司代や大坂城代を経由して老中に至るケースだ。一度江戸の「外」へ出るため、ここでは仮に「外回…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…、徳川家の重臣である本多家につながる本多康重へと交代した。大垣藩は関ヶ原の戦いで西軍に加わった伊藤家が取り潰され、岩津譜代の石川家が治めた。 また、近江佐和山に井伊直政、伊勢桑名に本多忠勝という、譜代大名の中でも特に重鎮とされる2人が配置された。佐和山は関ヶ原の戦いにおいて西軍の旗印だった石田三成の本拠地である。豊臣家はまだ健在で、そちらへの備えが必要だった。豊臣政権の重要人物だった三成の居城を押さえ、東軍の勝利を知らしめる必要があったのだ。一方の桑名は東濃地方有数の商業都市…

2.譜代家臣団の成立

…する酒井家をはじめ、本多家、大久保家、鳥居家、内藤家、平岩家、石川家、青山家、阿部家、成瀬家、渡辺家、植村家などがこれに含まれる。 山中譜代 松平家が居城を安祥から岡崎に移すまでの間に服属した譜代大名。1524年(大永4年)、清康は一族の松平信貞による反乱を抑えるため、居城を安祥から岡崎に移している。このとき服属した信貞の家臣たちも、山中譜代に含まれている。 岡崎譜代 清康が居城を岡崎に移してから、9代目の家康が遠江を平定し、浜松に居城を移すまでの間に服属した譜代大名。清康が…

いまからでも遅くない! 全国の城好きが選ぶ紅葉の名城5選

…少し距離はありますが本多家や榊原家など姫路藩主の廟所がある書写山圓教寺も紅葉の名所として知られています。 紅葉の見頃:11月中旬〜12月上旬 kojodan.jp 百済寺城 いちろう | 地上の天国[百済寺城] かつて宣教師ルイス・フロイスが「地上の天国」と称したのが百済寺城です。もともと百済寺は聖徳太子により創建された近江国最古級の寺院です。それを六角氏が城郭寺院として城塞化したのですが、六角氏を支援したことで織田信長に攻められことごとく焼き払われました。現在も総門の左右に…

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