攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

本多正純 の検索結果:

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…川側の交渉担当だった本多正純は全部の堀(総堀)のことである、として工事を強行し、堀をすべて埋めてしまう。天下の堅城・大坂城とはいえ、堀をすべて埋められてはただの裸城である。このあまりにも強引な謀略は、徳川が大坂城を恐れていたこと、そして何よりも和平が本当に一時的なものであることを如実に表している。 明けて1615年(慶長20年)の5月、再び戦いが始まる。この時の戦いは「大坂夏の陣」と呼ばれ、これが実質的に戦国時代の最後の戦いとなった。すでに堀を埋められていた豊臣側としてはもは…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次(十五)松平定信(十六)寛政の遺老と水野忠成(十七)水野忠邦(十八)阿部正弘(十九)堀田正睦(二十)井伊直弼(二一)安藤信正と久世広周(二二)一橋慶喜と松平慶永(二三)慶喜の側近たち江戸時代…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…れを受け取った執政の本多正純が握り潰して将軍に通さなかったとされている。その結果、正則は「将軍の許可を得ずに修築を行った」として罪に問われることとなったのだ。 正則は幕府に本丸および二の丸、三の丸の取り壊しを命じられて実行するも、石垣を少し崩した程度だったので、不十分とされてしまった。これが時の将軍・徳川秀忠の怒りをかい、1619年(元和5年)、ついに福島家は改易ということに相なってしまったのである。とはいえ、この時は減封・転封止まりで、所領をすべて没収というわけではなかった…

【戦国時代の境界大名】有馬氏――内憂外患を周辺大勢力の力で乗り切る

…で晴信は、家康側近・本多正純の家臣である岡本大八の申し出た斡旋話に乗り、多額の金銭を大八に提供した。だが、いつになっても褒美の話はない。そこで晴信が直接正純に確認したことから、斡旋運動は行われておらず、この一件は大八によるまったくの詐欺事件であることが判明する。 当然ながら大八は裁きにかけられ、牢獄に入れられた。しかし、そもそもこのような詐欺にかかること自体が晴信の信用を低下させ、さらに大八が「晴信は以前から不仲だった長崎奉行の長谷川藤広を殺そうとしていた」と主張したことで、…

【江戸時代のお家騒動】柳川一件 日朝を揺るがす前代未聞の「国書改竄事件」

…ている。これは幕臣・本多正純の指示であったといわれるが、このようなことが柳川氏に「幕府直参」という意識を植え付け、のちの騒動の一端につながったのではないだろうか。 朝鮮への対応に困った末に国書偽造を図る 対馬藩のこれらの働きにより、1606年(慶長11年)に朝鮮から和議に応じるとの知らせが来る。しかし朝鮮からもたらされた和議の条件が、対馬藩を困らせることになった。その条件とは、日本側から朝鮮に国書を出すこと、朝鮮出兵の際に先王の陵墓を荒らした犯人を見つけて差し出すことの二つで…

【江戸時代のお家騒動】宇都宮釣天井事件ーー秀忠派が長安事件の復讐を果たす?

…台】宇都宮藩【藩主】本多正純【主要人物】本多正純、徳川秀忠、加納殿 大御所家康の懐刀・本多正純の絶大な権力 本多正純は、父の正信とともに幕政の中心を担っていた人物である。幼少期より徳川家に仕え、徳川家康が秀忠に将軍職を譲り大御所として駿府に移った時も、家康に伴われて駿府城に入っている。正信や大久保忠隣といった重臣でも秀忠を補佐するため江戸に残されたことを考えれば、家康が正純を駿府に伴い傍に置いたことは、彼にいかに大きな信頼を寄せていたかをうかがうことができる。 この頃の徳川家…

【江戸時代のお家騒動】江戸幕府=徳川家内の激烈な生き残り闘争

…を振るった名政治家・本多正純の失脚」というのがその概要である。 つまり、中央政権の政争(とその波及)という色合いが濃く、これだけ見るとお家騒動とは何の関係もないように思える。これらの事件はすべて、主役を演じた大名たち個人の問題ではなく、幕府政治の主導権争いと密接にかかわっていた点が共通している。すなわち、江戸幕府=徳川家のお家騒動の結果、争いに敗れたりとばっちりを受けたりした大名が失脚させられた、といえるのだ。 この視点に立つと、一連の事件は非常に大きなスケールで展開したお家…

4.出世と譜代大名

…軍・秀忠は酒井忠世、本多正純、安藤重信、土井利勝の4名を幕政の中心に据えた。幕府の指示はこの4名の連署によって出されるようになる。のちの老中制と同じ形であり、いまだ老中の呼称はないものの、幕政を動かす基本的な制度は秀忠の頃に定まっていた。この頃もまだ、徳川家に古くから仕える宿老の譜代大名たちが取り立てられ、それ以外の大名が立身出世することは難しい状況が続いていた。 3代将軍・家光~4代将軍・家綱の時代 3代将軍・家光は先述したとおり6人の側近を取り立て、「六人衆」として幕政を…

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