攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

浅井長政 の検索結果:

【家康の謎】家康は信長の姉妹を娶ったのか?

…者・織田信長の妹で、浅井長政のもとに嫁ぐも、織田・浅井の同盟関係が破綻して長政が死ぬと織田へ引き戻された。さらに信長の死後に織田の重臣・柴田勝家のもとへ再嫁するも、その柴田が滅亡する際に運命を共にした、という女性だ。彼女と長政の間に生まれた3人の娘がそれぞれ有力大名のもとに嫁ぐなど、お市は戦国時代を語るにあたって欠かせない存在ではある。しかし、家康とお市の間の接点は少なくとも史実的には見出せない。……かと思いきや、糸口が何もないわけではないのである。 ここにもうひとり、ルイス…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…織田信長と朝倉義景・浅井長政の間で起こった戦いとして有名です。この戦いに徳川家康はどのように関わっていたのでしょうか? そして、この戦いを経て状況はどのように変わったのか。家康の足跡をたどります。 織田信長vs浅井長政・朝倉義景 -姉川の戦い前夜- 浅井長政の肖像画(高野山持明院像)と朝倉義景の肖像画(心月寺所蔵) まずは、姉川の戦いに至るまでの状況をおさらいしておきましょう。1570年(元亀元年)2月、信長は足利義昭を奉じて京へ出発、3月5日には上洛を果たします。このとき2…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…いといけませんね。(浅井長政は彼らに比べると暗愚な描かれ方をしていないのはやはりお江の父親だからでしょうか) まとめとしては、有名な合戦で負けても滅亡していないのは そもそもたいした規模の合戦ではない(殲滅戦にはならないし、盛られてる) 居城や領国が安泰なら挽回可能 有力家臣や国衆が離反し、本拠に攻め込まれるから滅亡する というあたりでしょうか。動画の中でも話していますが、有能・無能よりも「運」の要素のほうが滅亡に与える影響は大きくて、龍造寺家が滅亡しなかったのは秀吉が九州征…

【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

…る。この関係がのちに浅井長政の信長に対する裏切りへとつながっていくわけだ。 しかし、1555年(天文24年)に一向一揆が再び蜂起すると、上杉謙信と協力して再び出陣し、連戦連勝で一揆勢数千を討伐するも陣中で病に倒れる。どうにか本拠地の一乗谷に戻るが結局快復することはなく、ついに死去するのだった。この時に朝倉家は義景の時代だったが、結局朝倉家そのものも、義景の代で滅びてしまう。 朝倉を滅亡させたのは織田信長だが、ある伝承には教景が臨終の床で信長のその後の活躍を予言した、とある。お…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台④――お市の方が最初の夫と死に別れた城・小谷城

… まずひとり目の夫、浅井長政が倒れたのは、浅井氏が三代にわたって居城とした近江の小谷城(滋賀県長浜市)だ。長政の祖父にあたる浅井亮政によって小谷山に築かれた山城で、山の麓には平野が広がり、かつ北陸街道と中山道に容易に出られる位置にあった。そもそもお市の方を娶ったことからも明らかだが、当初長政は信長に対して友好的で、同盟関係にあった。信長の上洛にも、通り道である近江に大きな勢力を持つ長政の存在は大きかったはずだ。しかし、1570年(元亀元年)に信長が越前の朝倉義景を攻めると、朝…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ③――武将の気迫で持ちこたえた城・長光寺城

…長が同盟相手であった浅井長政と決別して近江の支配権を失いかけていたころの話だ。本拠地の岐阜城から琵琶湖を南に迂回して京都につながるルート(上洛のときに通った道でもある)を確保しなければならなかった信長は、1570年(元亀元年)にこの地域の幾つかの城に武将を配置した。そのうちのひとり、重臣の柴田勝家が入ったのが長光寺城だった、というわけだ。古い城であったから、勝家はこの城を修復しなければならなかったようだ。 その年のうちに、長光寺城は大きな戦いの場となった。信長に敗れて領地を追…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…方と近江の戦国大名・浅井長政の間に生まれた3姉妹の末妹(まつまい)で、一番上の姉は豊臣秀吉の側室として秀頼を産んだ淀殿である。お江は気の強い女性であったとされ、その怒りを恐れた秀忠はひとりも側室を持たなかった。身分の高い武士なら複数の側室を持つのが当たり前だったこの時代、これは非常に珍しいことだった。 ただ関係を持った女性はいて、子も生まれたのだが、「将軍の子」としての認知はできなかった。これが後の会津藩主・保科正之で、4代将軍・家綱の側近として活躍する。女性関係では、こんな…

明智光秀と浅井長政ーーあるいは「不安」が背中を押したのか?

…たすのが信長の義弟、浅井長政だ。 浅井長政は北近江の戦国大名である。一般に「あさい」と呼ばれるが、正しくは「あざい」とする説が有力だ。この一族はもともと近江半国守護京極氏の家臣であったのが、戦国時代になって下克上を果たした。しかしやがて南近江の六角氏からの圧力が強まり、長政も当初六角氏の家臣の娘を娶り、六角義賢から「賢」の一文字を受けて賢政を名乗るなど、実質的な支配下に置かれていた。 しかし長政は最初の妻を離婚した上で六角氏に戦いを挑んで破り、再び独立の道を進む。尾張から美濃…

明智光秀と斎藤龍興ーーあるいは越前でニアミス?

…浅井家の元へ移った。浅井長政はじつは親戚関係(龍興の母・近江の方は長政の妹であるとされる)にあったので、その縁を頼ったのであろう。ここからさらに朝倉家に移り、信長と戦い続ける。 朝倉家というと本連載ではどうしても光秀が気になる。かつての主君の子が朝倉家の客人になったことを光秀がどう思ったかーーはちょっとわからない。資料が残りようもない事柄だというのもあるが、正直あまり感慨はなかったのではという気もする。なぜなら、光秀と龍興の越前時代はまったくバッティングしていないからだ。ここ…

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…織田軍を追撃したり、浅井長政の要請を受けて援軍として近江に出たあとで義景らの本隊と合流、織田軍と戦って織田の重臣・森可成を死に追いやったり、という具合である。しかし、そのような奮戦にもかかわらず、朝倉氏の命運は尽きようとしていた。1573年、押し寄せる織田軍を迎え撃った「一乗谷の戦い(利根坂の戦い)」において吉家は討死。間も無く主君・義景も死に、越前の名門・朝倉氏は滅亡してしまったのである。 この吉家と明智光秀の間に、何か関係があったのか。史料としては痕跡を見つけられなかった…

小谷城 浅井三姉妹が父と暮らした城

…がれてきた。3代目は浅井長政であり、彼には織田信長の妹・お市との間に3人の娘がいた。娘の名前は茶々、初、江で、豊臣氏と徳川氏の覇権争いに大きな関わりを持つという数奇な運命を背負い、落城までの短い時間を家族で過ごした。 天下布武 | 大広間[小谷城] そもそも長政とお市の結婚は、戦国ではよくある政略結婚であった。織田信長と浅井長政は1567年(永禄10年)、あるいは翌年に同盟を結んだとされ、そのときに信長はお市を長政に嫁がせた。ところが、1570年(元亀元年)に信長が越前侵攻を…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…2020年4月4日 浅井長政あざいながまさ 浅井長政 四番町キャラクターワールド(滋賀県彦根市) 店舗 300円 戦将の符 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 2020年4月4日 真田信繁さなだのぶしげ 真田信繁 ネット通販(真・戦国丸オンラインショップ) 通販 300円 戦将の符 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 2020年4月4日 石田三成②いしだみつなり 石田三成 観光センター(滋賀県彦根市) 店舗 300円 戦将の符 書置き(印刷) 縦14.…

明智光秀と朝倉義景ーーあるいはあやふやな朝倉家臣伝説

…だが、信長と義昭の関係が悪化する中で再び出番がやってくる。信長はライバルとなりうる義景を打倒するべく兵を挙げるが、その背後を義兄弟・浅井長政につかれて辛くも生き延びる。信長が体制を整えて反撃を試みた「姉川の戦い」には、義景も大軍を送り込んで長政を助けるも結局負けてしまう。しかし信長もこの戦いで浅井・朝倉を倒すことはできず、両者は信長包囲網の一翼を担って長年にわたり信長と戦う。戦況は次第に信長有利と移り、ついに義景は本拠地・一乗谷の朝倉館に攻め込まれ、滅びてしまうのだった……。

明智光秀と徳川家康ーーあるいは本能寺の引き金

…めの最中に妹婿である浅井長政の裏切りにあった信長は、しんがり(撤退の最後尾で敵の攻撃を受けながら引き下がる役目)として幾人かの武将を残し、自身はわずかな供とともにまず京都へ、そして岐阜へと逃げ惑った。この時にしんがりという困難な役目を達成した武将として後世に名が残っているのが、織田家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)、有力な同盟者である徳川家康、織田傘下に入った摂津の有力大名・池田勝正、そして明智光秀なのである。もちろん「麒麟がくる」でもドラマチックなエピソードとして描かれるはずだ。…

【戦国合戦こぼれ話】信長の配慮不足が招いた朝倉討伐失敗

…た同盟者である近江の浅井長政が反旗を翻し、信長の背後を襲う動きを見せたのである。実は、浅井氏は朝倉氏と古くから縁があり、信長との同盟にあたっても「勝手に朝倉と敵対しない」という約束を取り付けていたのだが、信長がそれを無視したので朝倉側についたのである。 長政としては、このように同盟相手を無視する行動に出るようでは、今後いつ自分が討たれるかわからない、と考えたのだろう。信長としては「長政が利を優先して朝倉攻めを黙認する」と見て、あえて強行したのだろう。結局のところ、これは信長の…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…した。小谷城落城→父浅井長政、祖父久政が自害。北ノ庄城落城→義父柴田勝家と母お市が自害。そして最後は大坂城落城→息子秀頼とともに自害。悲しすぎますね。 pic.twitter.com/8Ia33xVcjW — 攻城団 (@kojodanjp) 2016年5月15日 第20回「前兆」 第20回は「古畑任三郎」の三谷さんって感じの回でしたね。 茶々が秀吉の子を解任し、それを揶揄する落書きが見つかったため、その犯人探しを信繁たちがするという話です。この落首事件はじっさいにあったみた…

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