攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

琵琶湖 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…御城印 令和六年春の琵琶湖版 大津城(滋賀県大津市) びわ湖大津プリンスホテル コンビニエンスショップ 550円 印刷 A6 2024年3月23日 具志川城跡 御城印 具志川グスク(沖縄県糸満市) 道の駅いとまん情報館 500円 印刷 A6 2024年3月20日 花倉城 御城印 花倉城(静岡県藤枝市) 葉梨西北活性化施設 白ふじの里 300円 印刷 縦16cm、横10.5cm 2024年3月20日 三床山城 御城印 北陸新幹線開業記念版 浅葱色 三床山城(福井県越前町) 豊公…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…信長とともに越前から琵琶湖の西を通って京に戻り、信長は美濃へ、家康は岡崎に帰還しました。 岐阜に戻った信長は、浅井長政を討つために北近江に出陣し、6月21日に小谷城を攻撃します。家康も5,000の兵を率いて参陣しました。しかし堅固な小谷城を攻め落とすのは無理と判断して一日で退却、後方の横山城を包囲しました。信長と家康は龍ヶ鼻(たつがはな)に陣を構えます。これに対し、浅井・朝倉軍は姉川の北に、信長・家康軍も呼応して姉川の南に布陣し、ここに姉川を挟んで両者が激突する「姉川の戦い」…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑦――支城を失い、戦意を失った城・観音寺城

…山道を見つめ、西には琵琶湖の内湖を見る交通上の要所を押さえており、後に隣の安土山に織田信長が安土城を築いたのも納得の重要拠点といえる。 繖山は南北朝時代からも山砦として使われてはいたが、本格的に城が築かれたのは戦国時代になってからで、全盛期とされる六角定頼(ろっかく さだより)とその子・義賢(よしかた=承禎)の時代に改築されて壮大な石垣(当時普及を始めていた新兵器・鉄砲に対抗するためだったらしい)による補強がなされ、城下町も形成された。しかし、六角氏がこの城を放棄するとともに…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城

…(滋賀県大津市)は、琵琶湖の水上交通およびこれを迂回する陸上交通の要所である大津に築かれた城である。琵琶湖に面した水城で、湖水を引き込んだ堀が三重に作られ、かなり強固な防備となっていた。最初の城主は浅野氏で、もともとの居城だった坂本城を建築材として利用したらしい。その後、江戸時代初期に解体され、さらに別の城の建築材に流用された。 関ヶ原の戦いの前哨戦で、この大津城も戦火に晒された。当時の城主は京極高次で、その妻は豊臣秀吉側室・淀殿の妹である初だ。この境遇からわかるように豊臣氏…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑩――戦うことなく炎に消えた城・安土城

…ても、西に向かっては琵琶湖の内湖に面し、水上交通が活用できる。当時、琵琶湖の水上交通は重要な存在だったのだ。東に向かっては中山道が走り、京に入るにしても、あるいは北陸や東海に出るにしても、非常に便利な位置関係にある。陸上交通と水上交通の両方を活用できることで、安土の城下町は大いに栄えたとともに、信長はいつどこに出陣することになっても迅速に兵が動かせたわけだ。 また、この安土城には天皇が行幸するための建物が築かれていたらしい。実際に行幸が行われることはなかったようだが、信長はも…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ③――武将の気迫で持ちこたえた城・長光寺城

…とで、長光寺城を含む琵琶湖の南岸地域は織田氏の支配下に入っている。 長光寺城が歴史に登場するのはそれからしばらく後、信長が同盟相手であった浅井長政と決別して近江の支配権を失いかけていたころの話だ。本拠地の岐阜城から琵琶湖を南に迂回して京都につながるルート(上洛のときに通った道でもある)を確保しなければならなかった信長は、1570年(元亀元年)にこの地域の幾つかの城に武将を配置した。そのうちのひとり、重臣の柴田勝家が入ったのが長光寺城だった、というわけだ。古い城であったから、勝…

琵琶湖の水位低下で坂本城の石垣が出現

…いと思いますが、現在琵琶湖が14年ぶりの渇水状態にあるそうです。水位がマイナス65センチまで下がったため、ふだんは水没している坂本城の石垣が露出しているということで、さっそく出かけて見てきました。 www.youtube.com 平日なので空いてましたが、それでもニュースを見た方が次から次へと見学に来てました。コの字型に並べてありますが、手前のほうの石垣はあとで動かしたもののような気もします。ちょっとわからないですが。なお現地にはさわったらダメと書いてありましたが、近づいて見…

【クーデターで読み解く日本史】将軍を手玉にとった六角高頼の知略――長享・延徳の乱

…角高頼の本拠地である琵琶湖東へ進軍した。これを受けて高頼は戦わず退却したので、幕府は近江の奪還には成功したものの、目的である高頼の征伐はかなわなかった。その背景には本来主力となるはずの守護大名たちの足並みがそろわず、管領・細川政元(ほそかわ まさもと)をはじめこの出陣に反対の声が強かったことがあるようだ。 幕府と六角氏との戦いはその後も長引き、大した戦果は得られなかった。それどころか、幕府軍が撤退をしようとする際に、浪人数千人が攻撃をしかけてくる始末だ。一説に拠れば、伊賀国の…

【お城の基礎講座】88. 三大湖城(さんだいこじょう)

…津市にあった城です。琵琶湖の沿岸というか、琵琶湖上に作られました。1600年より前まではこの付近では大津城が大きな城でしたが、関ヶ原の戦いで被害を受けてしまったため、徳川幕府が天下普請によって膳所城が作られました。天下普請第一号の城として有名です。現在では城のほとんどが破壊されてしまい、遺構を見ることはなかなか出来ません。縄張を担当したのは築城の名手藤堂高虎(とうどうたかとら)です。本丸部分は当時は陸続きではなく、琵琶湖の中に石垣を築いて島のようにし、本丸の西の隅には四重四階…

【お城の基礎講座】87. 三大海城(さんだいうみじろ)

…は? 水面が穏やかな琵琶湖や瀬戸内には湖や海に接して城が築かれました。これらを水城、海城と呼びます。当時の物流は海・湖・川などを利用する水上交通が主流で、川や海を抑えることは武将にとってとても重要なことでした。そのため、湖や海に接して城を築いたのです。たたし、城攻めの戦略の一つである水攻めはできなかったため、攻略するのは難しかったと思われます。 まとめ 三大海城はと呼ばれているのは、高松城、今治城、宇和島城の三城です。いずれもかつて海城だった名残が残っていますので、海城巡りも…

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…JR比叡山坂本駅から琵琶湖の方に向かうと坂本城址碑が、次いで湖畔に坂本城本丸跡があります。 syama1957 | 坂本城址 石碑(二の丸跡)[坂本城] 現在の坂本城の遺構は住宅地になっていて、残念ながらその正確な位置や規模などは不明。天守・城・石垣などはなく、石碑や石像だけが残されているのみです。寺町に川の流れを利用した堀を設けたような自然を利用した縄張りになっており、堀も埋め立てられているようですが、城下町だったその遺構を歩くと、意外と見応えのあるスポットだったりします。…

「麒麟がくる」第1回に登場した明智城と稲葉山城はどんなお城か

…と感じました。途中、琵琶湖を船で進んでたけど、美濃から出たことがなければ川舟以外に乗ることもはじめてだったはずなので、もっと驚いてもいいんじゃないかと思ったけど、まあそこまで描写してると長くなるのではしょったのでしょうね(馬は預けたのか?)。 あえて説明しないのもよかったと思います。十兵衛の行脚ルートを示す地図にはちゃんと巨椋池も描かれていたし、ちょいちょい三好家の家紋が入ったのぼり旗が写りこんでいたのもいい。斎藤道三が父と二代で美濃を乗っ取ったとか、帰蝶が土岐頼純に嫁いでお…

二条城歴史講座「二条城は誰のものか―明治維新後の歩みをたどって―」を聞いてきました

…されます。北垣さんは琵琶湖疏水を完成させた人として有名ですが、彼の日記に離宮にしましょうと進言したことが書いてあります。また同時期の朝日新聞には二条城・大阪城・敦賀城が離宮に定められるという噂が流れていたという記事がありました。 結果、1884年(明治17年)に二条城が離宮となり、二条離宮に解消され、翌年府庁が移転(退去)しています。 国の迎賓施設になったことで本格的な修理がおこなわれた 府庁時代は応急的な修理しかしていなかったようですが、二条離宮になったことで大規模な修繕工…

大津城 開城がわずかに早かった城

…賀県大津市)にあり、琵琶湖による水運だけではなく、街道が集まる要所として重要視されている。豊臣秀吉もその重要性を認識し、家臣の浅野長吉に命じてここに築城させた。大津城は水城と呼ばれる平城の一種で、外敵を防ぐために水堀(湖沼などを堀として利用する)がある城だった。城はその後、所有者を次々と変え、今回紹介する騒動が起きた「関ヶ原の戦い」のときは京極高次が城主となっている。 こうの | 城址碑[大津城] 高次は近江に生まれたが、幼い時は織田家の人質として岐阜にいた。その後、織田信長…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…秀の兵に追われた松が琵琶湖に飛び込んだのもこの回でした。死なないことは史実から知ってましたが、まさかあんなふうに再登場するとは思いもしませんでした。 畿内では羽柴秀吉が毛利攻めを中断して京都に駆け戻り、そのまま光秀をやぶった「山崎の合戦」が起きました。例によってナレーションだけでしたけど。 中央の政変に振り回されながら、昌幸は「これより真田は、誰の下にもつかぬ」「どんな手を使っても、わしは真田を、この地を守りぬいてみせる。大ばくちのはじまりじゃ!」と宣言します。 いわゆる「天…

近江と遠江の由来

…る。これらは、当時の琵琶湖の呼称をそのまま国名にしたものである。飛鳥京から藤原宮時代の木簡(大化の改新から律令制までの間)には近江国は「近水海」と記載されている。また「近淡」(海は缺損か)と記載するものもある。 一方の遠江の由来はこちら。 「遠江」の名称と由来 古くは「遠淡海(とほつあはうみ)」と表記した。遠淡海は、一般的に浜名湖を指すと言う。(ただし、国府のあった磐田郡の磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。)都(大和国)からみて遠くにある淡水湖という意味で、近くにあるのが…

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