攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

籠城戦 の検索結果:

鳥取城 日本史に残る、凄惨な籠城戦の舞台

鳥取城は久松山(鳥取県鳥取市)の山頂に築かれた山城であった。1545年(天文14年)に因幡守護・山名誠通によって築城されたと伝わっている。山名氏の居城・布施の天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)の出城(本城以外の要害に築かれた城)として使われていたといわれており、城代として山名氏の家臣・武田高信が入っていた。高信が城主の山名氏を裏切り、城を手にしたあと、高信自身も山名氏の一族・山名豊国に殺され、城主は豊国となった。 かなのぶ | 鳥取城山の上丸の石垣[鳥取城] 中国地方の平定を命…

長篠城 武田氏の終焉をもたらした城

…の前に、前哨戦となる籠城戦が行われていたことはあまり知られていない。その舞台となったのが長篠城だ。 長篠城(愛知県新城市長篠)は1508年(永正5年)に菅沼元成によって築城された。元成は山家三方衆のひとりに数えられ、奥三河(三河国北東部の山間部)の山岳地帯の豪族のリーダー的な存在だった。城は代々菅沼氏が継いだが、群雄割拠の世界ではそれも長くは続かない。城は所有者を変え、戦いが起きる頃には徳川家康の支配下にあった。 ぴく | 遠景[長篠城] 家康の領地と隣接する甲斐の武田氏は大…

浜松城 のちの天下人が絶体絶命の危機に陥った戦い

…していった。 家康は籠城戦を覚悟していたので、あっけにとられてしまったことだろう。敵が去った以上、そのまま戦いを避けることもできるのだが、当時の家康には城に籠ったままというわけにはいかない事情があった。 まず、同盟を結んでいる織田信長の援軍が来ていた点だ。援軍といってもわずか3千の兵しかおらず、監視が目的といわれている。その折、戦うことなく逃げれば、家康は信長に見限られる可能性もでてきてしまう。 家康が引けなかったもうひとつの理由は領国の地侍の影響だ。武田氏の三河進出で、武田…

忍城 豊臣の猛攻に耐えた堅城

…地・小田原城で長期の籠城戦がおこなわれたが、一方で北条の支配下にある関東各地の城でも数々の戦いがあった。豊臣方の石田三成による忍城攻めもその中のひとつだ。 tamo | 雨上がりの夜空[忍城] 舞台となる忍城は北条氏の支配下にあった成田氏長の居城であった。埼玉県行田市にあり、湿地帯の中に点々とある島に築かれている。城は攻めにくく、越後の上杉謙信を退けるなど、堅城として知られる。城は1490年(延徳2年)、成田親泰によって築城された。それ以降も成田氏が代々城を守っている。 秀吉…

長光寺城 柴田勝家が籠城をやめて、決死の出撃をした城

…を取り囲むと、勝家は籠城戦の構えをとった。義賢が農民を懐柔して城の情報を聞き出すと、城には水源がなく、桶を使って水を運ばせているという情報を手に入れた。 守りの固い長光寺城を攻めては被害が大きくなると考えた義賢は、城への水源を絶ち、兵力を削ぐ作戦に出た。兵を分けて水路を絶ち、和平の使者を派遣して、彼に城の内情を探らせた。 義賢の作戦通り、城内では水が不足するようになっていった。その作戦は勝家も見抜いており、黙って水がなくなるのを待っているわけではなかった。使者が報告することを…

大津城 開城がわずかに早かった城

…始めた。高次らは城で籠城戦をするが、西軍は大砲を使って城を攻撃。天守閣を破壊するなどして、城内の者の戦意を削ごうと企んだ。しかし、高次と家臣たちの戦意は損なわれず、西軍の猛攻を耐えたのである。 9月14日の攻防の最中、西軍は遣いとして高野山(和歌山県伊都郡高野町)の僧・木食上人応其を城内にやり、開城の交渉を進めさせた。高次はまだ戦意を失っていなかったが、周囲の意見を聞き入れる形で開城を決断する。その理由の一つには外との連絡がとれず、家康側の動きを知らなかったこともあっただろう…

備中高松城 秀吉の奇策に沈んだ城

…。 ここを舞台にして籠城戦がおこなわれている。近くを流れる足守川を堰き止めて、川の水を城内に流すという水攻めがおこなわれたことで有名だ。 pinehouse | 西沼[備中高松城] 戦いが起きたのは1582年(天正10年)、当時の城主は清水宗治である。彼は元々、備中国賀陽郡幸山にいて、築城した久孝の娘を妻にしていた。久孝の没後、他の候補者を倒して城主となっている。その後、安芸の大名・毛利氏が備中に進出すると、その支配下に入った。 だが、この地方を狙っていたのは毛利氏だけではな…

河越城 奇襲によって大軍を破った戦い

…5年)にここで劇的な籠城戦がおこなわれた。『河越夜戦』と呼ばれる戦いで、相模国小田原城主・北条氏康がわずか8千人で8万もの大軍を討ち破っている。 UMA1001 | 市立博物館にある模型[川越城] まずは戦いが起きた背景を確認しておきたい。当時の関東では北条氏が領地を拡大しつつあった。相模を領していた北条氏は領地を広げ、武蔵へと手を伸ばしている。近隣の大名はそれを不安視し、それまで内紛をしていた武蔵の扇谷上杉氏と上野(こうずけ)の山内上杉氏が手を結んだ。 両家は同じ祖を持って…

よくわかる第一次上田合戦

…田合戦」で、たんなる籠城戦ではなく撤退する徳川軍を城外まで追撃してることから地名をとって「上田・神川(かんがわ)の合戦」や「神川合戦」とも呼ばれます。 ざっくりと合戦の経緯をまとめました。 (いうまでもなく「諸説あり」満載の経緯なので、事実と異なる部分があるかもしれません) 信幸が一隊を率いて戸石城に布陣 徳川軍が上田城を攻撃 二の丸門まで攻めこまれたところで昌幸が反撃 信幸の部隊が背後から攻撃 撤退する徳川軍をさらに追撃 神川のせきを切り決壊させてフルボッコにする 以下、ち…

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