攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

賤ヶ岳の戦い の検索結果:

2023年に訪問して良かったお城

… 一般的にこの城は「賤ヶ岳の戦い」の際に柴田勝家が本陣とした陣城として知られていますが、さすがに即席で整備するには大規模すぎるので、それより前、清州会議で長浜城が秀吉から柴田方に譲渡された際に、勝家の居城・北ノ庄城とのつなぎの城として整備されていた可能性が指摘されていて、ぼくもそっちに一票です。ただつなぎの城に大規模な曲輪は必要ないので、「賤ヶ岳の戦い」の前に急ピッチで改修したのも事実だと思います。 中腹にある駐車場から約30分ほど急勾配の登山道をのぼっていくと、あとはほぼ平…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…、その後も使者に) 賤ヶ岳の戦いを経て、今度は信雄と秀吉が対立 翌年正月、家康は信雄と会見 信雄を支持する? 北条と同盟を結んだ家康に関東惣無事の役目は果たせない 佐竹氏や宇都宮氏など反北条の大名は直接秀吉に取り入ろうとする 1584年(天正12年)、43歳 小牧・長久手の合戦で家康は信雄方に 当初は北伊勢あたりが戦場になると予想されたが、美濃の池田恒興らが秀吉方についたため(犬山城を攻略)、尾張が戦場に 家康は小牧山城に本陣を置く 兵力差は信雄・家康軍は1万5〜6千、秀吉軍…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」、そして1585年の四国征伐と、秀吉の配下として各地を転戦したのだ。 また、こうした連戦の中で信長の居城として有名な安土城の築城にも関わっていたのだから、彼が大変に重宝がられていたことがよくわかる。そんな正勝の働きは実際にはどんなものだったのだろうか? 元「野党の親分」というイメージからは、合戦や諜報など、情報収集と腕力による活躍が想像される。もちろん正勝は戦場でも多くの武勲を上げているのだが、それ以上に多いのが外交折衝での活躍だった。 秀吉…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…進撃は続いた。まず「賤ヶ岳の戦い」において旧織田家臣団で一番の実力者だった柴田勝家をやぶり、信長の後継者の地位を確実なものとする。また「小牧・長久手の戦い」では徳川家康相手に苦戦しつつも、その後に家康が旗印としていた織田信雄を懐柔して相手を押さえ込み、さらに朝廷に近づいて関自の座を得る。こうして着々と天下統一の道を進む豊臣秀吉は、ちょうどその頃土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。 長宗我部家は以前から秀吉に敵対する動きが目立ち、こ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台⑤――お市の方が殉じた城・北ノ庄城

…年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」が起こる。この戦いに敗れてしまった勝家は北ノ庄城に引き返したが、そこに追撃の秀吉軍が迫る。北ノ庄城側に援軍のあてはなく、敵から本格的な攻撃が始められ、城に火を放たれると、勝家は自刃を決意。彼はお市の方に逃げるように言うが、彼女はそれを受けれなかった、と伝わる。 かつて最初の夫である長政が自刃した際にも、彼女はともに果てることを望んだが、長政に説得され三人の娘を連れて城から脱出した。しかし今回、お市の方は頑として揺るがず、娘たちだけを脱出させる…

【10大戦国大名の実力】織田家④――信長の息子たち

…破り、岐阜城に留め置くことによって秀吉に実権がわたるのを防ごうとする。しかし、秀吉は信雄を味方に取り込んで正当性を確保しようとする。近年の研究によると、信雄がこの際に織田家当主となっていたらしい(少なくとも秀吉陣営はそう扱っていた)ことがわかっている。 結果として秀吉・信雄陣営と勝家・信孝陣営の対立は加速し、賤ヶ岳の戦いへと至る。この戦いで勝家は居城で自刃に追い込まれ、信孝は一度秀吉に降伏して三法師を引き渡した後、再び挙兵するも兵が離散して再度降伏。やはり自刃して果てている。

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…る。ふたりとも、特に賤ヶ岳の戦いで活躍した「七本槍」のひとりとして有名だ。 関ヶ原の戦いでは正則と清正はともに東軍についた。西軍の実質的なリーダーである石田三成と以前から不仲であったことがその原因であるらしい。特に正則は関ヶ原における決戦で先鋒として戦ったし、そもそも豊臣系大名を家康の味方につけるにあたっても大きな働きをした。戦後はその功績によって、安芸・備後両国に49万8千石余を領する広島城主となった。 だが、これはもともとの領地であった尾張――のちに徳川御三家のひとつが置…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…継者闘いに勝利した「賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳合戦)」では羽柴軍5万余騎、柴田軍3万余騎と両軍あわせて8万人とそれほど大規模ではありませんが、これは大名家同士の合戦だからでしょうね。 唯一、秀吉と家康が争った「小牧長久手の戦い(小牧長久手合戦)」は羽柴軍10万余騎、徳川軍3万余騎と両軍あわせて10万人をこえています。 家康といえば、秀吉亡き後の豊臣家との争いである「大坂の陣」がありますね。 「大坂冬の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍10万余騎とあり、両軍あわせて30万人。これが今回…

【江戸時代のお家騒動】大谷吉継による家臣団継承 越前国5万石の民生安定

…その後継者をめぐって賤ヶ岳の戦いが勃発。吉継はまたしても羽柴軍として戦いに参加した。この戦いで特に活躍した者たちが「賤ヶ岳七本槍」の名で有名だが、吉継や三成はその中に入っていないものの、それに劣らないほどの活躍をしたと伝えられている。このように秀吉のもとで戦功を重ねた吉継は、1585年(天正13年)に従五位下刑部少輔に任じられる。こうして吉継は、政権の中心を担う存在となったのだ。 さて、そんな吉継が5万石の城主となったのは、1589年(天正17年)のことである。この年、越前国…

金沢城 武士が統治する証となった城

…て発達した。 金沢御堂は一揆の中心であり、本願寺と対立していた織田信長による一揆の鎮圧が行われた。1575年(天正3年)8月に3万を越える大軍で越前に出陣して総攻撃。その後、柴田勝家に加賀攻めを任せている。勝家は金沢御堂を陥落させ、一向一揆の指導者を討ちとって首級を信長に送っている。こうして100年に及んだ民衆による統治は終わった。その後、金沢城は盛政が統治したが、「賤ヶ岳の戦い」で戦死。1583年(天正11年)に前田利家が入った。江戸の終わりまで前田氏が代々居城としている。

加藤清正の虎退治

…と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」で活躍し、「七本槍」と讃えられたことはつとに有名だ。 その後も秀吉の天下統一戦で存在感を示してきた清正は肥後熊本に19万5000石を与えられる。1592年(文禄元年)から九州の諸大名を中心に大陸出兵が行われた際にもその主力として活躍し、朝鮮の二王子(臨海君・順和君)を捕らえ、朝鮮半島を踏破して兀良哈国(現在のロシア)にまで攻め寄せるなどの功績を残した。 そして、このころに彼が演じることになった大立ち回りこそ、「加藤清正の虎退治」である。あると…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…築城開始。 4月、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴軍が柴田軍を破る。 1584年(天正12年) 18 昌幸、室賀正武を暗殺。 3月、「小牧・長久手の戦い」がはじまり、秀吉と信雄・家康連合軍が交戦する。 1585年(天正13年) 19 7月15日、昌幸、沼田割譲問題で家康と決別し、上杉家に臣従。信繁、上杉家の人質として預けられるが、景勝は家臣の待遇で迎えた。「第一次上田合戦」で約7,000の徳川軍を撃破。 秀吉が関白となる。 1586年(天正14年) 20 7月、家康が昌幸征伐のために甲…

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