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【10大戦国大名の実力】織田家④――信長の息子たち

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信長と共に死んだ後継者

しかし、信長の築いた織田政権は、十一男十女という彼の子どもたちには継承されなかった。
その勢力を引き継いだのは織田家中において出世頭だった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)であり、信長の子どもたちはその多くが秀吉の支配下に置かれた。

最大の原因は、本来信長の跡を継ぐはずだった男が死んでしまったことである。
彼の名は織田信忠(おだ のぶただ)。信長の嫡男であり、1575年(天正3年)には織田の家督を継いでいる。もちろん、織田家を指揮しているのは信長だが、信忠には岐阜城が与えられて武田家の押さえや尾張・美濃の統治を任せられ、数年後には織田軍の総指揮を任せられることも頻繁になった。

このなかで信忠が示した能力は「信長の後継者」として十分なものだった。
信長も内外に信忠を後継者としてアピールしており、何事もなければ――もしくは、信長自身に何かがあっても、信忠さえ生きていれば織田政権は存続したはずだ。重臣の中の誰かが主導権を握ろうとしても、信忠が中心に座っていればそれをひっくり返すだけの大義名分は作れない。

しかし、本能寺で信長が倒れた際に、同じ京の妙覚寺にいた信忠は京を脱出せず、二条御所に入って明智軍と戦った。
逃げなかったのは「京は包囲されているはず、無意味な脱出は恥である」という信忠の判断だったというが、実際にはそのような包囲はなかったようだ。判断の是非はともかく、信忠はわずかな手勢と共に明智軍に対して奮戦したがついに力尽き、自決して果てた。

清洲会議で織田政権は崩壊ヘ

結果として、織田政権はリーダーと後継者を同時に失ってしまった。どちらかだけならば織田氏による支配は続いたろうが、そうはならなかった。
秀吉が光秀を討った後、政権の重臣たちが清洲城に集まり、信長の後継者と今後の方針を決めるための会議(清州会議)が行われた。そこで信長生前の織田家において一番の重臣であった柴田勝家が三男の信孝を推したのに対し、秀吉は織田家当主だった信忠の嫡男でわずか3歳の三法師を推し、結果として三法師が家督を継ぐことになった――というのが広く知られている通説である。

しかし、近年では別の見方も出ている。すなわち、筋論よりも大名としての実力が優先されがちな戦国の世において、血筋的正統性では勝っても幼児の三法師が家督を継ぐことになったのは、次男・信雄と三男・信孝の二人が家督をめぐって激しく対立しており、この争いを収めるためだった、というのである。
信雄は伊勢の名門・北畠家の養子となった人物だ。織田政権では伊勢や大和方面の軍勢を任せられたが、大敗して信長に叱責の手紙を送られたとされるなど、凡愚な人物とみられがちである。一方の信孝はやはり伊勢の名門・神戸家の養子になった。信長が生きていたころの彼の評価は高く、さまざまな史料――とくに宣教師による記録が、彼を文武両道の勇士として讃えている。

信雄・信孝は同年の兄弟なのだが、ここに面白いエピソードがある。
じつは信孝の方が数十日ほど前に生まれていたのだが、信雄の母の方が身分が高かったために逆転させられた、というのだ。真偽はまったく定かではないが、もしこれが本当であるなら、二人が家督をめぐって争う背景にはこの事情があったのかもしれない。

だとしても、もし本当にこの二人の対立によって「三法師が織田家当主に」という流れが作られたのだとしたら、家督を欲した彼らの思いは完全に逆効果であったと言わざるを得ない。
なぜなら、漁夫の利を得た秀吉が他の重臣たちを抱き込むことによって織田政権の実権を掌握していったからである。

これに対して信孝は清洲会議での「三法師は安土城に」という取り決めを破り、岐阜城に留め置くことによって秀吉に実権がわたるのを防ごうとする。
しかし、秀吉は信雄を味方に取り込んで正当性を確保しようとする。近年の研究によると、信雄がこの際に織田家当主となっていたらしい(少なくとも秀吉陣営はそう扱っていた)ことがわかっている。

結果として秀吉・信雄陣営と勝家・信孝陣営の対立は加速し、賤ヶ岳の戦いへと至る。
この戦いで勝家は居城で自刃に追い込まれ、信孝は一度秀吉に降伏して三法師を引き渡した後、再び挙兵するも兵が離散して再度降伏。やはり自刃して果てている。

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