攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

鍋島直茂 の検索結果:

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

…の隆信を支えた軍師が鍋島直茂(なべしま なおしげ)なのだ。 直茂は龍造寺家家臣の鍋島清房(なべしま きよふさ)の息子として生まれる。隆信の従兄の関係にあった彼は、ある人物に見出されて隆信の側近として仕えることになる。それは隆信の母の慶誾尼(けいぎんに)だった。彼女は息子を補佐するべき人材を捜した末に直茂に目を付けるのだが、そこで驚くべき手段を取る。なんと彼女は自分も清房も共に連れ合いを失っていたのをいいことに、清房に強引に嫁入りをしてしまったのだ。隆信と直茂の関係をさらに近づ…

【戦国軍師入門】今山の戦い――奇襲を成功させ、会心の勝利

…隆信を支えた名軍師・鍋島直茂(なべしま なおしげ)が活躍した「今山の戦い」を紹介する。龍造寺家がじわじわと勢力を拡大していた頃のことだ。1568年(永禄11年)、大友宗麟の3万の大軍が来襲し、絶体絶命の危機に陥る。この時、龍造寺に味方する武将は佐賀城に19将しかいなかった。 誰もが諦めかけた中、直茂は籠城しての徹底抗戦を主張し、ひとりこの場で死のう、と叫んで畳を刀で斬って見せる。これに応じて隆信も、我も汝と同じ、と叫んで立ち上がり畳を斬ったため、諸将も覚悟を決めた。この時は直…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…(七)直江兼続(八)鍋島直茂大名のブレーンといえば僧侶(九)太原雪斎天下人にナンバー2はいたか(十)明智光秀(十一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次…

【10大戦国大名の実力】島津家③――島津四兄弟による九州統一戦

…かのぶ)とその義弟・鍋島直茂(なべしま なおしげ)の時代に最盛期を迎えた。宗麟の日向侵攻を切り抜けた義久は、次に肥後ヘ目を向けた。ここには長年の宿敵である相良氏がいたため、順当な選択といえる。この侵攻は順調に進み、1581年(天正9年)には相良氏を降伏させることに成功している。こうなると、いよいよ島津・龍造寺の決戦が日前に迫ってくる。 激突のきっかけは1582年(天正10年)、肥前の有馬氏が龍造寺氏から離反して、島津氏に救援を要請したことだった。龍造寺隆信率いる軍勢に脅かされ…

【殿様の左遷栄転物語】二重に抱えた複雑な事情 佐賀藩鍋島家

…だ隆信と、清房の子・鍋島直茂(なべしま なおしげ)は義兄弟の関係となった。 隆信を直茂が補佐する形で龍造寺家は快進撃を続けて九州三強の一角にまで上り詰めるが、隆信は1584年(天正12年)に沖田畷の戦いで島津家に敗れ、討ち死にしてしまう。この危機に際し、隆信の跡を継いだのは息子の政家(まさいえ)だったが、彼は父に比べて政治家としても武将としても劣っていた。 そのため、隆信の補佐役であった直茂が龍造寺家の実権を握るようになった。この「鍋島体制」というべき状態は、慶誾尼の信任、九…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…筋ながら英明な義子・鍋島直茂に龍造寺氏の命運を託した慶誾尼(けいぎんに)。伊達政宗の母で実家最上氏と伊達氏が争った際、興で戦場に押し掛け争いを止め、「鬼姫」と呼ばれた保春院(義姫)。 さらに、伝承と思しきものも含むが戦場に出た女武者の例もある。瀬戸内の女武者で、彼女が使ったとされる甲冑が残る大三島(今治市)の鶴姫。小説『のぼうの城』で有名になった、小田原攻めにおける忍城攻防戦で名を挙げた甲斐姫。しかし、女の身で城主として武家の頭になった人物となると、ほとんど例がない。本書の遠…

【江戸時代のお家騒動】鍋島騒動「猫化け話」に象徴される龍造寺家の悲劇

…鍋島勝茂【主要人物】鍋島直茂、鍋島勝茂、龍造寺高房 怪談「猫化け話」にこめられた龍造寺家の悔恨 数多くのフィクションの題材となったことから、別名「化け猫(猫化け)騒動」とも呼ばれるのがこの鍋島騒動だ。1607年(慶長12年)、肥前の大名・龍造寺高房が江戸藩邸で妻を斬り、本人も自殺を図るという事件が起きた。家臣の制止によって一命を取り留め一旦は快復したものの、乗馬大会で無理をしたため傷が開き亡くなってしまう。22歳という若さだった。その後、高房の死から1ヶ月もしないうちに父の政…

佐賀城 平和に主が変わった城

…。彼を支えたひとりが鍋島直茂であった。隆信の母・慶誾尼が直茂の父に嫁いだため、ふたりは義理の兄弟という関係になっている。これは政略結婚で、鍋島氏の力を見抜いた慶誾尼が押しかけて結婚をしたと言われる。龍造寺氏の快進撃は多くの敵を作った。隆信が倒した少弐氏の被官たち、龍造寺氏の力を脅威に感じる周辺の大名たちである。その中でも大きな勢力だったのが豊後の大名・大友氏だ。当主の大友宗麟は1554年(天文23年)に将軍・足利義輝から肥前守護に任じられていたため、1565年(永禄8年)に肥…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…直江兼続(上杉家)・鍋島直茂(龍造寺家)・伊集院忠棟(島津家)といった各大名を補佐する優秀な重臣に接近し、知行を直接与えたり、「この武将にこれだけの知行を与えるように」と大名に指示したりした。その理由としては、外様の大大名から腹心を切り離すことで勢力の分断を狙い、優れた武将を取り込もうとしていたのだと考えられている。急激に成り上がったために直臣が少ない豊臣家の台所事情も関係していただろう。これらは露骨な内政干渉であり、もともとは独立した勢力であった諸大名は、腹にすえかねたはず…

佐賀城を攻城

…であり、従弟でもある鍋島直茂が実権を握ることになります。その後、龍造寺氏と鍋島氏の間ではいろいろといざこざがあるんですけど、とにかく佐賀城は鍋島直茂によって築かれた城だということです。正確にはもともとあった村中城を改修・拡張したもので、実験は握りつつも村中城はいまだ当主であった龍造寺政家(隆信の嫡男)の居城であったため、本丸の位置が防御性に乏しいはしっこにあるようないびつな縄張になってるそうです。 このへんの話はすべてボランティアガイドのおじさんの受け売りです。 本丸御殿を復…

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