二月騒動は執権・北条時宗が異母兄・北条時輔と得宗家に次ぐ勢力があった名越流北条氏を討伐させた北条氏一門の内紛です。 なぜ「如月騒動」じゃなく「二月騒動」なんでしょうね。
宝治合戦の結果、有力御家人の三浦氏が滅亡したことで、北条得宗家による得宗専制政治が確立したと言えます。 1200年(正治2年)の梶原景時の変からの約50年で鎌倉幕府の政治体制は一新されました。
権力者が亡くなると争乱が起こるのは世の常ですが、北条義時の死後に起きたのが伊賀氏の変です。 今回も北条政子が未然に防いでいるのですが、彼女の危機察知能力と対応能力の見事さが伺えますね。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時を討伐するために起こしたのが承久の乱です。幕府内の内部分裂を図った上皇に対して、北条政子が武士の立場を向上させた頼朝の恩顧を訴え、ひとつにまとめた演説が有名ですね。
泉親衡の乱で和田義盛の甥である胤長は配流となり、屋敷も没収となります。面目を失った義盛は同族の三浦義村らと挙兵するも義村の裏切りにあい敗れます。 なぜこれが「和田義盛の乱」ではなく「和田合戦」と呼ばれているのかはよくわかりません。
北条氏に対しての不満が表出したひとつの事件が泉親衡の乱です。 御家人とはいえさほど有力者ではない親衡が鎌倉で300人以上の武士を集めたことを考えると、和田一族が黒幕ではないかとする説もあるそうです。
梶原氏、比企氏を滅ぼして幕府の実権を握った北条氏でしたが、今度は内部での争いが起こります。親子での対決を制したのは娘・政子と息子・義時でした。 北条政子を三大悪女に数える説もありますが、どう考えても牧の方のほうが悪女ですよね。
北条氏による執権政治のはじまりとなるのがこの比企能員の変です。将軍の後継者争いであると同時に、その後見の座をめぐる北条氏と比企氏の争いでもありました。
鎌倉時代の初期には多くの粛清(実態は政争と謀殺)が繰り返されますが、最初に起きたのが梶原景時の変です。 頼朝の側近だった景時の評判が悪すぎたことも問題だったのでしょう。
平氏から源氏へと政権が移動したのが治承・寿永の乱です。一般には「源平の戦い」と呼ばれますが、正確には平清盛ら伊勢平氏に対する、その他の平氏や源氏の連合軍の争いでした。 結末は周知のとおりですが、清盛の死、戦争の天才・源義経の存在がなければ歴…
後白河上皇との対立が徐々に深まる中で起きたのが鹿ヶ谷の陰謀でした。 平氏打倒のための密談がおこなわれたということですが、近年はこの事件そのものが清盛によるでっち上げだったとする説もあるそうです。
平氏と源氏、武士中心の世の中をつくったふたつの勢力が争ったのが平治の乱です。直前に起きた保元の乱後の体制に対する不満が派閥抗争に発展したわけですが、勝ったのは平清盛であり、源義朝は敗れて命を落とします。
貴族の時代から武士の時代への転換点といえるのがこの保元の乱です。武士がいなければ政治闘争に勝てないという事実とそれに伴う混乱はこのあともつづいていきます。
前九年の役につづいて起きたのが後三年の役です。奥州藤原氏の祖、藤原清衡が一族の後継者になった争いですが、同時に関東における源氏の名声が大きく高まった事件でもあります。
桓武天皇の時代におこなわれた蝦夷征討のあと、大和に帰順した安倍氏らが東北を治めていました。しかしその勢力が拡大しすぎたたために滅亡させられることになったのが前九年の役です。