軍事の天才・足利尊氏を内政面で支え続けた弟の直義でしたが、足利家の執事で側近であった高師直の存在により対立することになります。 南朝も巻き込んだ全国規模の兄弟喧嘩でしたが、最終的に当事者の直義も師直も死亡し、尊氏だけが生き残る結果となりまし…
ついに決裂した後醍醐天皇と足利尊氏の争いが延元の乱(建武の乱)です。一時は尊氏を九州にまで追いやった天皇方でしたが、最終的には京を奪還されます。結果、吉野に逃れた後醍醐天皇が南朝を起こし南北朝時代がはじまります。
マンガ『逃げ上手の若君』の主人公、北条時行が起こしたのが中先代の乱です。 この乱では足利尊氏に敗れた時行ですが、その後も抵抗をつづけ、二度にわたり鎌倉を再奪還しています。
後醍醐天皇とその倒幕計画に同調した勢力により起こされたのが元弘の乱です。 なお『国史大辞典』では全体を「元弘の乱」と呼び、後醍醐天皇が隠岐に配流されるまでを「元弘の変」と呼んでいます。
鎌倉時代の末期は北条得宗家の執事にあたる内管領が権勢を振るっていました。 裁定すべき内管領・長崎高資が対立する双方から賄賂を受け取り紛糾させてしまったのが津軽大乱(安藤氏の乱)です。
後醍醐天皇による最初の倒幕運動がこの正中の変とされてきたのですが、最近はこれは『太平記』に基づく冤罪で、後醍醐天皇はこの時点では倒幕を考えていなかったという説もあります。
有力御家人、北条氏一族、自らに仕える御内人と次々に排除してきた北条得宗家でしたが、最後に起きるのが得宗家内部での殺し合いというのも皮肉なものです。
霜月騒動によって権力を握った平頼綱でしたが、当然反発も生まれるわけで、執権・北条貞時により滅ぼされました。貞時の娘2人を含む、一族93名が死亡したとか。
こっちは「十一月騒動」じゃなく「霜月騒動」なんですよね。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介の乱など、いろんな呼び名がある事件です。 幕府に仕える御家人と、得宗家に仕える御内人との対立により、有力御家人・安達氏が滅ぼされました。
二月騒動は執権・北条時宗が異母兄・北条時輔と得宗家に次ぐ勢力があった名越流北条氏を討伐させた北条氏一門の内紛です。 なぜ「如月騒動」じゃなく「二月騒動」なんでしょうね。
宝治合戦の結果、有力御家人の三浦氏が滅亡したことで、北条得宗家による得宗専制政治が確立したと言えます。 1200年(正治2年)の梶原景時の変からの約50年で鎌倉幕府の政治体制は一新されました。
権力者が亡くなると争乱が起こるのは世の常ですが、北条義時の死後に起きたのが伊賀氏の変です。 今回も北条政子が未然に防いでいるのですが、彼女の危機察知能力と対応能力の見事さが伺えますね。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時を討伐するために起こしたのが承久の乱です。幕府内の内部分裂を図った上皇に対して、北条政子が武士の立場を向上させた頼朝の恩顧を訴え、ひとつにまとめた演説が有名ですね。
泉親衡の乱で和田義盛の甥である胤長は配流となり、屋敷も没収となります。面目を失った義盛は同族の三浦義村らと挙兵するも義村の裏切りにあい敗れます。 なぜこれが「和田義盛の乱」ではなく「和田合戦」と呼ばれているのかはよくわかりません。
北条氏に対しての不満が表出したひとつの事件が泉親衡の乱です。 御家人とはいえさほど有力者ではない親衡が鎌倉で300人以上の武士を集めたことを考えると、和田一族が黒幕ではないかとする説もあるそうです。