かつて上杉・武田を撃退したという成功体験がのちの判断ミスにつながったとも言えますが、今回の話についてはそれぞれの戦いの背景というか、北条氏の同盟関係が変化していることに注目ですね。
この人取り橋の戦いにおける伊達政宗のラッキーは、非常にピンチの状態で武田信玄や上杉謙信が亡くなった織田信長のラッキーに似てますね(暗殺説もあるようですが)。ともあれ歴史に名を残すのに運は必要ということでしょう。
大友氏を裏切った立花鑑載は父を大友宗麟に殺されているので、その恨みもあったようです。後詰にかけつけた援軍が、自領のピンチによって撤退しなければならないという経緯は上月城の戦いに似てますね。
慶長出羽合戦の舞台として有名な長谷堂城ですが、もともと庄内地方をめぐっての上杉景勝と最上義光の争いがあり、それが関ケ原の戦いの際に顕在化したとも言えます。攻め手の直江兼続は長谷堂城付近で刈田狼藉をおこなって挑発したようですが、守将の志村光…
尼子経久によって拡張され難攻不落の要塞と名高い月山富田城ですが、大内義隆らに責められた第一次は防衛に成功したものの、大内氏滅亡後に毛利元就が攻めた第二次では兵糧攻めに敗れ、尼子氏は滅亡することに。
のちに毛利輝元が広島城を築いて移るまで、長年にわたり毛利氏の居城として使われた吉田郡山城ですが、山全体を要塞とする規模になったのは元就の晩年で、尼子氏を撃退した当時はまだ拡張前だったようです(一部の拡張がはじまっていたとも)。
近年、織田信長についてはそれほど革新的ではないとか、むしろ幕府再興を目指した当時の価値観でも保守本流であるといった再評価が進んでいますが、こと美術的な観点ではやはりこの桃山文化を育んだことは偉大だなと思います。豪商との結びつきや海外交易な…
侵略した土地を支配するためには大義名分が必要であり、そのためにも尼子氏の再興は妙案だったのですが、三木城が敵方になった以上、当時の秀吉の権限と兵力ではどうにもなりませんでした。それ故にあの無残な干殺しになったかはわかりませんが。
もっとも苛烈な籠城戦のひとつとして知られる岩屋城の戦いですが、父を救援したいと訴える立花宗茂の代わりに援軍として加勢した吉田兼正(吉田左京)らもあっぱれでした。彼らは高橋紹運と運命をともにしましたが、その遺族は宗茂により保護されたそうです。
大坂の陣のいきさつは「真田丸」でご覧になられた方も多いと思います。徳川方が和睦の条件である「惣堀(惣構えの堀)」を都合よく「総堀(すべての堀)」と解釈してだまし討ちのように埋め立てたと紹介されてきましたが、じっさいにはこの工事をめぐってト…
忍城の戦いは日本三大水攻めのひとつに数えられるほど有名な籠城戦ですね。ちなみに文中の氏長夫人は太田資正の娘らしいのですが、甲斐姫の母親は由良成繁の娘だそうです。
いくつかある女武者のエピソードの中でもこの富田信高夫人の話は素敵ですよね。でも自分の城を捨ててまで救援に駆けつけた分部光嘉もカッコいいと思います。 ちなみに家康が信高と光嘉を先行して帰還させたのは津が交通の要衝だからですね。
馬防柵などを用いた長篠の戦いにおける信長の戦法が日本における野戦築城のはしりという説もあるとか。他家を圧倒的に凌駕する財力あってのことなのでしょうけど、織田→羽柴と受け継がれた野戦築城術はチート感がありますね。
瓶割り柴田のエピソードは江戸時代に書かれた『武家事紀』が初出ということでおそらく創作なのですが、城のある長光寺山が瓶割山とも呼ばれているように地域の伝承として語り継がれてきたようです。
「第一次上田城の戦い」は作戦としてはわりと単純なのですが、現代でも将棋倒しのような群集事故が起きているのを見てもわかるように大軍が密集するとコントロールが効かず、指揮命令系統は崩壊するのでしょうね。