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八王子城 戦国の終わりを告げた城

戦国時代のひとつの終わりとなるのは、豊臣秀吉による小田原征伐と言えるのではないだろうか。
この戦いによって豊臣秀吉の力が天下に知れ渡り、その後、国内での大きな戦は消えていくからだ。その戦いの舞台のひとつとなったのが八王子城である。

八王子城は関東の山城としては破格の大きさである。
この城は、北条氏康の三男・氏照によって1582年(天正10年)頃に築城されたと考えられている。
城は深沢山に建てられた。深沢山は北浅川と城山川に挟まれた扇状地にある、険しい独立峰である。
さらにここは小田原道、秩父道、河越道といった街道の合流地点にもなっているため、交通の要衝でもあった。豊臣秀吉の進撃に備えて築城されたと言われている。

その予感は1590年(天正18年)に現実のものとなり、秀吉による小田原征伐が行われた。秀吉は戦の前に、関東の諸大名たちに惣無事令を発していた。私戦の禁止を命じていた訳だが、北条氏の家臣が真田氏の領地を奪ったことを理由に、北条氏の討伐を決めたという経緯があった。
それに対して、北条氏の家中では交戦か、融和かで意見が分かれていた。当主の氏直は戦うべきではないと考えていたが、彼の父である氏政、叔父の氏照らは交戦を主張した。氏照は軍の指揮をするため、八王子城を家臣に任せて精鋭とともに小田原城に入り、秀吉を迎えうった。

関東に進軍した秀吉軍は、大軍で小田原城を囲んで支城を落城させていく作戦をとった。
支城のひとつである八王子城には上杉景勝、前田利家、真田昌幸らに豊臣秀吉の軍勢、投降した北条方の武将が加わり、5万ほどの大軍が向かった。
対する八王子城は氏照家臣、横地吉信、狩野一庵、中山家範、近藤綱秀らを中心に農兵などを含めた3千人ほど。戦う前から結果はわかっているような状況であった。

6月23日の夜明け、前田利家は総攻撃を前に被害を減らすため降伏を呼びかけたが、北条方の意志は固かった。寅の刻(午前4時ごろ)に総攻撃の合図がなされ、豊臣勢が城に攻めかかった。
北条方は必死に抵抗したが、数で勝る秀吉方に押しきられた。城に籠っていたほとんどの人間が亡くなり、秀吉側はおおよそ1200人の犠牲者を出して戦いは終結した。こうして八王子城は落城し、それからしばらくして北条氏は降伏する。当主の氏直は高野山へ追放、氏政・氏照は切腹が言い渡された。秀吉に抵抗する者があっさりと倒れ、多くの大名が秀吉の力を痛感したことだろう。

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